以前、こんなことを考えた。
物質の最小単位 。
簡単にいうと
プラトンのいうイデアとは不変かつ不滅で分裂も結合もしない
プラトンは魂のイデアは不変かつ不滅であると言っている
したがって魂は魂というイデアの最小単位である
っていうこと。
これはぼくの妄想含みの解釈で
飛躍も甚だしいのかもしれないが
先日のNHKスペシャル
をみたあとにちょっと違う角度で考えた。
番組の中で
人間の精神は脳の神経細胞がネットワーク全体として生じさせるもので
必ずしも固定のものではなく
そのときそのネットワークがどういう結論を導くかという
偶然性に依存している
また
脳の神経細胞のネットワークは人間だけではなく
他の動物にもあるものなので
人間だけが精神を持っているとは限らない
さらに
コンピューターのネットワークだって精神を持つかもしれない
みたいなことが言われていた。
脳の神経細胞のネットワーク。
ぼくは範囲を広げて
素粒子のネットワーク
っていってみたい。
どういうことかというと
たとえばぼくのからだは
さまざまな物質により構成されていて
その物質は
突き詰めればいまのところ素粒子に行きつく。
素粒子の一粒一粒には
不変かつ不滅である魂のイデアが含まれていて
その素粒子の組み合わせ
つまりネットワークにより
魂の複合体が構成される。
魂の複合体というのであるから
ひとつひとつの複合体はいつでも分裂や結合を行うことができる。
素粒子レベルの魂はイデアであるから不変で不滅であるが
魂の複合体は変幻自在なものになる。
しかも組み合わせのネットワークによって
そのときどきに構成される性格は異なる。
ぼくがぼくだと思っているぼくは
不変でも不滅でもない
ただの素粒子のネットワーク。
いい加減なものであるが
だからこそ唯一無二のかけがえのない存在だともいえる。
そしてそのおおもとの魂の素粒子は
誰もが同じものを持っている。
だからひとは惹かれあい共感しあえる。
素粒子に戻れば
ぼくたちはわかりあえる。
他の誰かとわかりあうのは本当に難しいことだけど
ごくまれに通じ合えたと思える瞬間が訪れることがある。
そんなときはきっと
素粒子レベルで共鳴しあえた
ってことなんだろう。
で
これは決して人間だけのものではない。
他の動物はもちろん
植物だってそうだろう。
もっといえば生物でない無機物
鉄や石などの鉱物や
酸素や窒素などの空気もそう。
宇宙に存在するあらゆるものは
素粒子の組み合わせによってできている。
だから
クリオネにも
秋桜にも
水晶にも
ヘリウムにも
魂がある。
もちろん人間だって
脳だけが魂のありかではなくて
全身の素粒子の組み合わせが魂の複合体なのである。
さらにいえば
ぼくの皮膚の内側だけがぼくの魂の複合体であるとはいえない。
ぼくは
たまたま素粒子が密になっている部分に過ぎないわけで
体内にとりこまれる空気や食物などを通じて他の物質とつながっている。
究極的にはぼくは素粒子レベルで宇宙の一部である。
宇宙だって魂の複合体だ。
ぼくをどの範囲までぼくであると認定するか。
その範囲設定が生命観だ。
おっと
話が大きくなりすぎて破綻してしまったようだ。
もっとよく考えなければ。
たまにこういう突拍子もないことを考えるのはたのしい。
こんなことをよそでいうと
変わったひとだと思われるのでやめておくが
まあここなら許してもらえるだろう。
秋の夜長にはうってつけだ。
最後にぼくの愛読書から孫引き。
上田閑照さんの“私とは何か”の冒頭。
宮沢賢治さんの“春と修羅”から。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)