進化論 | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

ダーウィンが著したのは“種の起源”。


生物学における“進化論”の“進化”とは、進歩するとか発展するとかそういう“価値判断”とは無関係らしいが、ついつい“前よりもよくなっていく”、たとえば“人類は生物の進化の頂点”なんぞと思ってしまうひとがいて困る。


だからぼくとしては、“進化論”というややこしい表現はやめて、ただ単に“変化論”っていいたい。


“猿”と比べて“人類”は優れているか。


ある部分では優れているが、ある部分では劣っているともいえる。


だってあんなに上手に木に登れないしね。


“生物はその置かれた環境に適した条件を持つものが残っていく”ってのはわかる。


で、その適した条件は、そのときそのときには妥当でも、いつまでも必要かというとそうでもないわけで、それなのに、たいして問題でない、邪魔にはならない、という理由でそのまま放置されていくものもある。


不都合にならない限り、不要な機能、非合理的な機能も残っていく。


“人類は進化なんてしていない。場当たり的に必要な機能を獲得してきただけだ”。


たしか伊藤計劃さんの“ハーモニー”のなかにそんな意味のことも書かれていたように思う。


パソコンに便利であたらしいソフトウェアを次から次へとインストールしながらも、使わなくなった古いソフトウェアは邪魔にならない限り削除せずにそのまま残しているようなもの、といえばイメージしやすいだろうか。


人類は、そのときの環境に合わせて変化を積み重ねてきたけれど、常に無駄なく最高で最適な状態になっているわけではない。


だから“進化論”ではなく“変化論”。


しかも“場当たり的変化論”っていうくらいでちょうどいい感じ。


ぼくたちは現状の問題を解消するために、都合のよさそうな新しい機能を獲得しようとする生きものだ。




話はがらっと変わって政治の話。


戦争に負けて、これまでのやり方はおかしかった、ってなって方法を変えた。


するととりあえずある指標においては右肩上がり的なグラフが描けているっていうんで、そのやり方を長らく続けてきた。


長らくそうやって続けてきたあるとき、うまくいってるって思ってたけど、どうもまずいぞ、既得権益にあぐらをかいて腐敗してきてるんじゃないか、バブル景気も崩壊、ってことに気づいて、じゃあ空気を入れ替えて変化を、っていうんで違うやり方に変えてみた。


でもなんだかあたらしいひとたちもいまいち。


こういう変化を求めてたわけじゃないんだよな。


だから、こんどは前のひとたちとあたらしいひとたちを混ぜてみた。


うん、これも変化。

でも混ぜてみてしばらくしたら、いつの間にかあたらしいひとたちは影を薄めて前のひとたちだけに戻った。


再び政治の中心になった前のひとたちは、前のひとたちなりにあたらしい仕組み目指していたかに見えたが、強引なやり方が目につくようになってきた。


ちょっと強引すぎるぞ、もうちょっとマイルドなやり方で話し合いながら進めた方がいいんじゃないか、ってことで、変化を求めてさらにあたらしいひとたちに任せてみたものの、どうにもうまく機能しない。


むしろ時間ばかりが過ぎて何も決まらない。


しかもねじれているし。


“何も決まらない政治”。


こんな変化を求めてたわけじゃない。


じゃあ“決められる政治を”。


そんな変化を求める声に押されて、再び政治の中心に戻ったのはやっぱり前のひとたち。


たまっていた鬱憤を晴らすかのように、もう決めるわ決めるわ。


次から次へと決めていく。


ちょっと強引に決め過ぎじゃない、って感じるひとが増えてきてるのがいまの雰囲気。


さてそれなら次はどうするか。


もうちょっとしっかりと議論しながら進めるように変化させたら。


時間のかかる問題はたっぷり時間をかけて決めなきゃ。


この流れ。


なんとなく人類の“進化”、もとい“変化”の過程に似ている。


“場当たり的変化論”。


これまでの経験を無視して、目先の変化ばかり求めると、同じところをぐるぐると回ることになっちゃうよ。


変化することが目的なんじゃなくて、どういう社会にしたいかが問題なんだよ。


そこを考えないと、また勝った負けたのしょーもない変化になっちゃう。


そんなことを思いながら、8月も今日でおしまい。


明日からは9月。