“壁”と“箱男”のどちらかを読もうと思いながら書店の棚を探していたら、“壁”がちょうどなかったので“箱男”にした。
読む前にこの作品に対して抱いていたイメージは、文字通り箱に入った男がうろうろとまちをさまよい傍観者的に社会を批評する、というものだった。
読み始めるとこれは半分は正解で半分は不正解だということがわかった。
実験的な作品だ。
だんだんと小説内の世界が歪んでずれてねじれていく。
錯綜。
不思議な不安定さを感じさせられる。
しかし、こういう不可解さを好むぼくとしては、結構、心地いい。
この作品を心地いいなんて評するひとは、おそらくは変態の部類に入るのだろう。
ぼくは変態ではないと少なくとも自分では思っているが、果たして周囲からみてどうかというと、それは言い切れないかもしれない。
箱男は、あらゆる社会的属性から自らを切り離して、まちをさまよう。
箱男の存在は、誰もが知っているが、誰もが無視する。
見て見ぬふりをする。
箱男の側も、無視されることをいいことに、好き放題に暮らす。
で、そういう話と思いながら読み進めると、途中から病院に留まったりする。
“カンガルー・ノート”でも、病院と看護婦が関係していたが、安部公房さんは医学部卒だけに、こういう素材は描きやすいのだろうか。
病院のなかに留まるといっても結局ごく限られた人間としか接しない。
考えてみれば、わざわざ箱をかぶらなくてもぼくたちはそもそも肉体という箱をかぶっている箱男なのではないかという気がしてくる。
もしも箱の中身が入れ替わっても社会的になんらの影響も与えない。
箱男は箱のなかに引きこもっているが、ぼくたちも自分のなかに引きこもっているといえるのかもしれない。
普通に社会との接点をもって暮らし、他者とのコミュニケーションを図っているようにみえても、その実、精神的には一切の接触を拒んでいるのかもしれない。
あるいはうわべだけの、またはすれ違いの、不完全なコミュニケーションとなっているのかもしれない。
部屋のなかに引きこもってネットで世界とつながっているつもりになっているひとたちと、学校や職場へ出かけて行って他者に振り回されながら毎日を過ごしているひとたち。
彼らがこの箱男とは明確に違うのだといえる根拠はあるのだろうか。
この作品を読んで、自らの存在の不確かさを思わないでいられるひとは幸せである。
不気味で不穏な不協和音が流れ続けているのに、決して耳をふさぐことができない。
――箱男――
安部公房