待ち合わせまで時間があったので都心の大型書店を端から端まで物色していたところ、平積みになっているこの本に再会した。
文庫化されていた。
平積みの表紙、土屋仁応さんの彫刻“麒麟”の静謐で荘厳な美しさに目を奪われるのは単行本と同じ。
読後の衝撃がしばらく頭から離れなかったあの体験。
再読した。
単行本の“こちらあみ子”、“ピクニック”に加え、ずいぶん短いけれども新作の“チズさん”が収録されている。
前回の読書では、純粋でありながら他人とは行動も思考もずいぶん異なっているが故に一般的な社会の枠組みからはみ出している主人公、あみ子や七瀬さんに、目を逸らしたくなりつつも不可解な興味を抱いてしまう自分がいたわけだが、その後のぼくの人生の経験値があがったせいか、また違う角度での感想も浮かんだ。
違和感があるのは、あみ子や七瀬さんではなく、こちら側に問題があるからではないか、ってこと。
あみ子や七瀬さんは果たしておかしいのだろうか。
ぼくが普段みている世界の中では確かに彼女たちは異彩を放っている。
けれども、ひとつひとつの彼女たちの言動を、その瞬間瞬間だけを捉えてみてみると、ほんとうにおかしいのは、それをおかしいと思うぼくの方なのではないか、という気になってくる。
関わり合いになりたくないとぼくが思ってしまうのは、自分自身がこれまで慣れ親しんだ世界観が壊れてしまうのを恐れているせいなのかもしれない。
“ピクニック”では七瀬さんと関わるルミたちが、七瀬さんの妄想を含めてそれをまるごと七瀬さんとして付き合っている。
からかい半分なところもあるのかもしれないが、七瀬さんを通じてルミたちの時間が意味のあるものになっているのは紛れもない事実だろう。
そこに新人が絡んできて、彼女が冷やかな視線を七瀬さんやルミたちに向けるところも、アクセントになっている。
結局おかしいのはどっちなの? って価値観が揺さぶられる感じ。
でも、どっちでもなくて、どっちが正しいとかおかしいとか、そういう善悪の彼岸にこそ、あたらしい人間の生き方があるのではないか、ってそんな風に思わせてくれる。
社会不適応ではないかと思えるひとが増えているのは、社会そのものが寛容さを失っているから。
あみ子や七瀬さんを、おかしいと思わせずに受け入れる世界はあるはずだし、ひとは、ある集団において不適応であっても、他の集団では適応できたり、あるいは他の集団では他を抜きんでて輝いたり、そういう存在だと最近では思っている。
“チズさん”で描かれる、何者かはわからないがチズさんに寄り添っているひとみたいな存在も、もしかしたらぼくが気づいていないだけで、すでにたくさん社会には存在しているのかもしれない。
社会的属性や労働や流行やお金には縛られずにつつましくも自由に生きるひとびと。
いままで自分が築いてきた価値観を、自分が自分の拠り所にしている世界観を、もしかしたらそれこそが自分を縛っている鎖なのかもしれないよ、って語っているようなそんな暗示をぼくが読み取ってしまうのも、この作品の行間と余白の豊かさにあるのかもしれない。
巻末の町田康さんの解説と、穂村弘さんの書評が、さすが。
――こちらあみ子――
今村夏子