もはや彼女の作品は、どれを読んでもフィットするので、安心しながら読むのです。
彼女の書く詩も小説も好きなのですが、こんなブログ風のエッセイみたいなのもよいのです。
基本的にネガティブな視点で世界を捉えながら、それでもハプニングのように時折訪れる幸せな瞬間を宝物のように待っているようなそんな姿勢を同志のように頼もしく感じるのです。
いちおう食にまつわるエッセイという縛りを課しながら、そこに描かれる食生活は極めて貧しいものであって、そういうインスタントな貧しさが、現代の日本に暮らして働くもののオーソドックスなスタイルでもあるような、だからといって別にそれに不満もなくってけっこう充足していたりもして、スローフードとかグルメとかオーガニックとかそういうことを大切にして生きているひとってほんとうにいるのかしら、メディアが創り出したまぼろしの種族ではないのかしら、ってそんなふうにいぶかしがってみたりもするのです。
まあそんなことをいいながら、たまにおいしいものをいただけば、やっぱりしっかり幸福感に包まれるのですけどね。
愉しむことが原罪。わたしなんかよりもっと愉しむべきひとがいるはずなのに、そのひとを差し置いて自分が愉しんでしまっていいのかしら、っていう罪悪感なんて、なかなか普通、感じないですよね、だってそれを感じちゃったら、目をつぶって耳をふさいで暮らすしかないんだもの。
でもそういうことを感じるところが、そして結局は自分が愉しんでしまうところが、ぼくたちのどうしようもないところでありやるせない無力感を認めざるをえないところだったりするわけです。
きょうもぼくは、風を試して、嵐のまえの静けさを試して、靴のかかとを、待つ時間のもどかしさを試します。古い本の紙の匂いを試して、時計の針が動く音を試して、水をはった田んぼに映る雲と空を試して、すれ違うひとの不機嫌な表情を、スーパーに整然かつ豊かに陳列された食材を、コップの外側の水滴を試します。試して試して試して試す。やがて試さずに済むときはやってくるのでしょうか。試さずに済む暮らしはどんなですか、愉しいですか、つまらないですか、そうですか。
カフカを思って涙を流す夜。
でもね、カフカって別にネガティブ教の教祖でも、ネクラ星人でも、しけた野郎でもなくってね、世界の不条理を濃く抽出する技術に長けている、典型的なウォッチャーなだけなんですよ。
ペペロンチーノとウインナーと卵焼き。
案外これは、究極のメニューかもしれない。
ちなみにぼくが好きな食べ物は、パスタ、うどん、オムライス、カレーライス、ハンバーグ。
ってこんな風にことばを連ねたくなるそんなエッセイ。
――発光地帯――
川上未映子