愛について語るときに我々の語ること | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

短篇集の表題作だけ読んでいたのだが、念のため、他の作品も読んでみた。


この短編集には、表題作を含めて17の作品が収められている。


文庫の最初には、

アグレッシヴな小説作法とミステリアスなタイトリングで、作家カーヴァーの文学的アイデンティティを深く刻印する本書は、80年代アメリカ文学にカルト的ともいえる影響を及ぼした。転換期の生々しい息づかいを伝える、鮮やかにして大胆な短編集。

と書いてある。


が、2014年のぼくが読むと、なんだかありきたりの小説作法とありきたりなタイトリングで、カルト的な影響なんて与えるようには思えない。


逆説的ではあるが、現在ではありきたりと思えるほどに後世の作品に徹底的に影響を与えたということの証しなのかもしれない。


直接、間接を問わず、この作品に影響を受けた作家は現在では、国内、海外を問わず多くいることだろう。


ぼくにとってのベスト・オブ・アメリカ文学といえば、ヘミングウェイの老人と海なのだが、その体感的なリアリズムとは決して交わることのない、極端にいえば都市的な精神の病理性を内在した作品ということになるのかな。


サリンジャーなどの系統?


で、この短編集の読み始めは、やはり、表現が凝っていて、お洒落ではあるが、なんだか読み応えのない、「だからなに?」的な感想を抱いたのだった。


けれども、読み進めていくと、やはりぼくも2014年の都会の人間らしく、この微妙で不完全な心理の描写がしっくりくるようになってくるのであった。


きっちりとした、わかりやすい筋書きもなければ、起承転結も、序破急もない、なんだか別の作品の一部を意味もなく切り出してきたような、作品の始まりと終わり。


17の短篇から気に入った作品をあえて述べるならば、

父の友人と彼の池のブラックバスを描いた“私の父が死んだ三番めの原因”

床屋に居合わせた男たちが語る鹿狩りの様子を描いた“静けさ”

ティーンエイジャーのカップルとそのベビーの夜と朝を描いた“何もかもが彼にくっついていた”

の三つかな。


ひたすら読みやすく、そして巧さは認めざるを得ず、また退廃的でありながら、バブリーな気配さえ感じる短篇集であった。



――愛について語るときに我々の語ること――

レイモンド・カーヴァー

訳 村上春樹