ミトノマグハイ | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

R指定ってほどではないですが、こういう内容がお好きでない方はいらっしゃるでしょうね。







ふだんぼくが好んで読む小説には、たいていの場合たいしたマグハイの場面が出てこない。


出てきたとしても、あくまでもさらっと流すように書かれているだけ。


あたかもそれを書くことが小説の作法だから仕方なく書いてるだけですよ、って感じで。


そういえばぼくが観る映画でも、さほどのマグハイの場面には出会わないような気がする。


それこそぼくがするっと流しているだけかもしれないが。


単にマグハイの場面だけでなく、およそ官能的な表現というものに触れる機会がないのだが、それはぼくの嗜好がたまたまそうだからなのか、それとも世間に出回るほとんどの小説、映画ではそういう表現が避けられていたりするからなのだろうか。


ずっと以前の話になるが、おとなの嗜みとして団鬼六先生の官能小説を手に取ったことがある。


書店であの表紙の文庫本を店員さんに渡して買い求めるときの恥じらいの感情はいまでも覚えている。


で、結構分厚かったと思うのだが、その小説を読み始めたものの、3分の1くらいで挫折してしまった。


基本的にどんな作品でも最後まで読んでおきたいぼくには珍しいことだ。


というのも、出てくる場面、出てくる場面で、美しい女性たちがさまざまな男性たちに、縛られているという展開に辟易としてしまったからだ。


なんとなく金太郎飴を思わせるその描写。


どのページを開いても同じような場面の繰り返し。


これがあと何百ページも続くなんて我慢ならない。


もちろん、団鬼六先生なので、格調の高い官能表現であったに違いないのだが、当時のぼくにはまだ早すぎたのかもしれない。


あるいは、小説あるあるで、つまらないと思える序盤を我慢して乗り越えることによって、中盤以降が俄然おもしろくなったのかもしれないが、いずれにせよぼくは途中であきらめてしまった。


以来、その手の小説を手に取ることは今日までない。


たしか吉本隆明さんだったと思うが、もし違ってたらこんなところで名前を出して申し訳ないが、むかしの対談か何かでこんなことを言っていた。


最近のアダルト・ビデオなるものを観たが、まったく官能的だとは思わなかった、まるで運動会の組体操を観ているようだった。昔のポルノ映画は、もっと人間の官能を刺激してくれた。


まあ、これを言っていた時点ですでに吉本さんだったと思われるひとはいいお年だったと思うので、若き日の吉本さんだったと思われるひとが観ればまた違った感想を抱いていたのかもしれないが、運動会の組体操とはまさに言い得て妙だと思う。


マグハイはスポーツだ、テニスの対戦のようなものだ、その証拠に、今夜一戦交えようか? なんて誘い文句もあるじゃないか、聴いたことも言ったこともないけど、というひともいるかもしれないが、そういうひとには運動会の組体操との表現は決して批判には聞こえないだろう。


けれどもぼくは、できることならマグハイはスポーツであるよりも対話であってほしいと思う。


相手の内面を引き出す対話。


お互いがお互いのインタビュアーになったりインタビュイーになったりするマグハイ。


聴くもの聴かれるものの交替を繰り返すうちにふたりはひとつのキメラ的生命体になってしまって、彼我の境目を見失う。


しかしそれはあくまでも見失っているに過ぎず、ふたつの個体がだんごのように混ざり合うことは決してない。


ぼくたちはふたつの個体が一瞬だけ到達することができるキメラ的生命体の意志のようなものを感じたときに、官能とよばれる感覚を味わうことができるのだ。