アンドレアス・グルスキー展 | (本好きな)かめのあゆみ

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中之島の国立国際美術館で開催中の“アンドレアス・グルスキー展”に行ってきた。


実はあんまり写真の愉しみ方をよくわかっていないのだが、特設サイトでは著名人のみなさんがやんややんやと絶賛しているようなので、そういうハイセンスな著名人のみなさんがお勧めしてくれるならさぞや見応えがあるのだろうと期待して観に行くという、まったくもって権威頼みの三流鑑賞スタイルである。


でもまあいいやん。


よさなんてわからなくても、そういう雰囲気というか空間というか、あるいは時間といってもいいし、なんなら時間と空間をあわせて時空間といってもいいのかもしれないけど、たまには日常の喧騒から離れてそういうところに身を置いてみるっていうのは、贅沢な過ごし方じゃないですか。


はい、かぎりなく自己満足ですよ。


で、お気に入りの古代の巨大生物の化石のような国立国際美術館の地下3階がその会場。


入口で配られる作品の配置図や解説はとりあえず読まないで、まずは写真だけをひたすら観て回る。


順路なんかはあるようでないようなので、迷路に迷い込んだような気分で流れていく。


最初の部屋では“バンコク Ⅰ”が目を惹きつける。


抽象画のような光。


次の部屋では“F1ピットストップ Ⅳ”と“ツール・ド・フランスⅠ”が好対照。


どちらもスピード感のある現場であるにも関わらず、“F1”は一瞬を切り取ったような切迫感を感じさせ、逆に“ツール・ド”は止まっているはずの写真になぜか動きがあるように感じられる。


その後、“北京”とか“大聖堂”とか“プラダ Ⅰ”とか“V&R”を眺めつつ進むと、来ました“カミオカンデ”。


ゴージャス。


黄金の神殿。


エルドラドってこんな感じ?


その次の部屋には“99セント”。


わお、かわいいというかポップというか無機的というか大量生産大量消費というか。


まあおもしろい。


で、実は“ツール・ド・フランスⅠ”のあとにも観ていたんだけど、“ピョンヤン Ⅰ”。


おお、かの国のマスゲームは異様な光景に感じるけれども、まあこの写真で観ると違った意味が見出せそう。


最後の部屋の“南極”なんかもいい。


でひととおり最後まで廻ったら、出口には行かず、また入口の方に戻って、今度は解説を読みながらもう一度写真を観る。


番号順に並んでいないので、照合が面倒なのではあるが、これも演出であろう。


ぼくがグルスキーについて持っていた情報は、

複数の写真をあわせて大きな全体を構成していること

細部と全体が均等な詳細さで写し出されていること

であったが、解説を読んでいると

ミニマルとか群衆とかデジタル技術とか厳格な水平とか

その辺もキーワードになっているみたいだ。


2周目では、“ベーリッツ”の写真のなかに、たくさんのひとを発見してびっくりした。


それまでスピーカーか、何かの送風口かと思っていたので、巨大な農園か何かだと気づいたときは驚いた。


同様に、“カミオカンデ”の右下にゴムボートに乗った2人のひとを見つけたときは、一気に世界が広がった。


こんなに巨大な構造物だったのか。


荘厳。


さらに解説を読むと、光電子増倍管と呼ばれるセンサーに映りこむ無限の反復、とあり、ミニマル好きのぼくとしては、さらに感激するのであった。


で、思うのだが、解説を読んで感激する、というのは芸術作品に接するときの正しい態度なのだろうか。


予備知識なしでありのままの出会いに感激できる芸術と、知識を吸収することで感激できる芸術。


この両方を繰り返していくことで感性が磨かれて、ありのままの出会いに感激できる可能性も広がるのかもしれないが、できることなら、“かみなりに撃たれるような”衝撃的な出会いがほしい。


もう、これだけ経験を積んで来たらなかなかそういう出会いはないのだが、それでもたまにはそういうことがあって、だから人生、やめられないのである。


そして“バーレーン Ⅰ”のあの不思議な砂漠の道路の印象を残して、会場をあとにしたのであった。


ちなみに、“カミオカンデ”がやはりいちばん気に入ったのだが、その次は“ライン川 Ⅱ”であった。


デジタル処理で対岸に密集する建築物を消したとのことだが、川と岸と空の水平線が人間世界の始まる前あるいは終わった後をあらわしているようで、遠い気分にさせてくれる。


人間がいてもいなくても自然はそこにある。


ぼくはしばしばモノレールから大阪平野を見下ろして、密集する高層ビルの街並みだけが残り、ひとがなんらかの理由で消えてしまった未来、というような夢想をしてしまう。


人工物はひとが消えた後も残る。


もちろん自然ならば人間の営みとはなんらのつながりもなくそこにあり続けるだろう。