ここはページ数も多くて読み応えのある章。
訴訟のことなんてもう忘れてしまおう、なんて思えば思うほど、訴訟のことから頭が離れなくなっていくK。
そういうことってあるよね。
忘れようとすればするほど忘れられないこと。
まさにKは無視しようと考えた無意味な訴訟のことで頭がいっぱいになっていく。
Kの感じる息苦しさが、心理的にも、物理的にも感じられる絶妙の表現。
ある朝、突然逮捕されて以来、得体の知れない訴訟に巻き込まれるという非現実的な設定でありながら、そこで描かれるのは、実に理路整然とした会話の妙。
不条理のなかの条理。
考えてみれば、この作品で描かれる訴訟というのは、ぼくたちが生きている世間そのもので、逮捕されるまではおよそ気にすることもなかった裁判所組織というものが、逮捕されてからは意識せずにはいられない存在になるという、そういう仕組み。
そういう世界があることを知ってしまったひとだけが感じてしまうこの息苦しさ。
知らずに暮らしていられた無邪気なあの頃がなつかしい。
あるいは今までどおりに生きていたら決して近寄ることのないはずの、怪しい宗教やら組織やら個人やらに、ことば巧みに乗せられてまんまと嵌っていってしまうようなそんなリアリティ。
カフカ自身が勤め先の労働災害保険協会で経験した論理的でありながら不可解としかいいようがないさまざまな組織のあれこれがここに反映しているのかもしれない。
自分の生存圏内でのあたりまえは脆くて儚いものであって、ちょっとしたきっかけさえあれば、まったく反対の理論で構築される世界でさえも生きていける人間の柔軟さ、裏を返せばいい加減さ。
叔父に紹介されたあの信用ならない弁護士に頼らず、自分で弁明書を作成してやろうかとさえ考えるK。
しかし、逮捕の理由もわからないのに、何を弁明すればいいのか。
弁護士はいう。
――最初に出す請願書はすでにほとんど完成している。しかし、この最初の請願書を裁判所で読んでもらえぬことがままある。法律では訴訟手続について公開を義務付けているわけではない。弁護そのものも法律で認められているわけではなく単に黙認されているに過ぎない。裁判所によって認められた弁護士というものも存在しない。しかし、世間一般に対してのみでなく被告に対しても秘密に進められる訴訟手続に対して、正式には存在しない弁護士であってもそのつてというものがあり、それが被告にとってはぜひとも必要である。
――事情通の弁護士たちは裁判になんらかの改革をもちこんだり実現しようとしたりなぞしないが、初期の被告はほとんどだれもが訴訟についての改良の提案を考え始め、無駄な時間を過ごしてしまう。唯一の正しい態度はあるがままの現状と折れ合うことなのだ。
そんなことをいいながら、弁護士はなにかと理由をつけていつまでたっても最初の請願書を完成させないのだった。
そんなことを考えているうちに銀行での貴重な仕事の時間は過ぎ去ってしまうほどに、Kのこころは訴訟に支配されていた。
なじみの工場主があらたな融資を受けようとKのもとを訪ねてくるが、熱心な工場主の説明にもかかわらず、Kの耳にはちっともその話が入ってこないのであった。
そのとき、隣の部屋の頭取代理があらわれ、工場主に私がお話をお聞きしましょう、と手を差しのべて自分の部屋に工場主を連れて行った。
ようやく訪問者がいなくなった部屋でKは考える。
――問題は、いつまでつづくか見通しもつかないこの訴訟全体なのだ。まったく何という妨害が突然おれの人生に投げ込まれてしまったことだろう。それなのにいまでも銀行のために働けというのか?訴訟の噂はまだ頭取代理のところまでは届いていないようだ、さもなければ彼が同僚のよしみも人情も捨ててそれを自分のために利用しつくすのを、これまでにはっきり見せつけられていたことだろう。
すると、頭取代理との話を終えた工場主がKに声をかける。
――あなたは訴訟に関わってらっしゃるんでしょう?
――頭取代理がそう言ったんですね!
――違いますよ。裁判所のことをときおり耳にするもんですからね。
――なんてたくさんの人が裁判所と関係しているんだろう!
工場主は、出入りの画家のティトレリという男からKの訴訟のことについて聞いたといい、ティトレリは裁判所の仕事もしているらしいので、Kの助けになるかもしれないと紹介する。
何の役にも立たないだろうと思いながらも、画家のもとを訪ねたくて仕方がなくなってしまうK。
とうとう長い間待たせている他の訪問者を袖にして、銀行の業務中であるにも関わらず、ティトレリのもとへ向かっていく。
画家の住居は郊外のみすぼらしい界隈にあった。
このまちなみの、みすぼらしさ、息苦しさの表現が実に巧みだ。
画家の住むアパートに着き、階段を上がっていると3人の少女たちがKをおもしろがって画家の部屋へと案内する。
この少女たちの描写も効果的だ。
逮捕の際に向かいの部屋から覗き見ていた老女たちなど、Kの思考の邪魔をするひとびとの存在がいらいらをKにも読み手にも募らせさせる。
画家の部屋はアトリエというにはあまりにも小さくみすぼらしかった。
さんざんもったいぶった挙句、ティトレリはKに自分と裁判所との関わりを説明し、助力を申し出る。
――わたしが裁判所に信用があるんじゃないかというあなたの意見は、完全にそのとおりです。
――それは公に認められた地位なんですか?
――いや。
――そういう公認されていない地位のほうが公認されたものより影響力の強いことが、よくありますね。
――それがまさにわたしの場合ですよ。
ティトレリは裁判官の絵を描く仕事を通じて、裁判所のひとびとに通じているという。
――あなたは潔白ですか?
――わたしは完全に潔白です。
――そうですか、潔白だったら、事は非常に簡単じゃないですか。
――潔白だからといって事態が簡単になるわけじゃありません。さまざまな人から聞いた話では、裁判所はひとたび告訴した以上被告の罪については確信しきっていること、そしてこの確信を捨てさせることは実に難しいこと、これらの点では全員が一致していました。
――実に難しいですって? 裁判所がそれを捨てることなぞ絶対にありませんよ。わたしがカンバスに描いた裁判官の前で自分を弁護したほうが、実際の裁判所でするより効果があるでしょう。
部屋の外から画家のアトリエを覗きこみ、Kとティトレリの会話の邪魔をする少女たち。
ティトレリはいう。
――あの少女たちも裁判所の一部なんですよ。
――なんですって?
――なにしろすべてのものが裁判所の一部ですからね。
――そうとは気がつきませんでしたね。
――あなたはまだ裁判所の大体がわかっていないようですな。
裁判所の画家は世襲される地位で、父親が裁判所の画家であったため、ティトレリはこどものころから裁判所に触れてきたという。
――どんな種類の釈放をご希望か、最初にうかがうのを忘れてましたよ。三つの可能性があります。すなわち真の無罪、見せかけの無罪、それから引延しです。わたしには真の無罪に持ち込む力はありませんが、その力を持った人物なぞそもそも一人として存在しないのです。
空気がよどみ、めまいさえ覚えるK。
見せかけの無罪には一時的な集中した努力が要るのにたいし、引延しのほうはずっと僅かですむが持続的な努力が要るという。
しかし、下級の裁判官たちを説得して見せかけの無罪を勝ち取って訴訟手続からの自由を取り戻しても、あくまでも見せかけなのでいつまた上級の裁判官がこの見せかけの無罪の書類に気づいて再び逮捕の指示を出すかはわからないので、被告はいつまでも突然の再逮捕を気にかけなければならない。
いっぽう、同様に下級の裁判官たちを説得して訴訟の手続きを引延ばした場合は、定期的にわずらわしい訴訟手続は続くが、再逮捕の不安にさいなまれることはない。
選ぶのはあなただ。
画家の最後の言葉が終らぬうちにKは立上っていた。
帰ろうとするKに画家はいう。
――この二つの方法に共通するのは、被告の有罪判決を妨げるという点ですよ。
――しかし真の無罪判決をも妨げていますね。
部屋を出ようとするKに画家は自分が描いた荒野の風景の絵を見せる。
不愉快ながらも画家に何らかの礼をしなければならないと考えたKはその絵を買うという。
すると画家は、異なるテーマで描いたといいながらまったく同じに見える絵を3枚も出してきた。
――全部つつんでください! あした小使いにとりに来させます。
――その必要はありません。いますぐあなたと行ける運び手を見つけられるでしょう。
少女たちの待ち構えるドアと反対側のドアをKに案内する画家。
開いたドアから外を見て、Kはまた足をひっこめてしまった。
――あれはなんです?
――何を驚いているんです? 裁判所事務局ですよ。裁判所事務局がここにあるのをご存じなかったんですか? ほとんどどこの屋根裏にだって裁判所事務局があるのに、ここにあっていけないわけがないでしょう? わたしのアトリエも本来裁判所事務局の一部なんですが、裁判所がわたしに使わしてくれてるんですよ。
Kが驚いたのは、ここに裁判所事務局があることに対してではなく、自分の裁判所に関する無知に対してだった。
そこにいたひとりの男をつかまえて、絵を運ばせるティトレリ。
Kは、その男が廷吏だとすぐにわかった。
なぜなら、男の私服のふつうのボタンに金ボタンがまじっていたからだ。
少しずつ裁判所の仕組みを理解していくK。
裁判所のことなど知らずに暮らしていられた無邪気なあの頃がなつかしい。
――審判〈弁護士・工場主・画家〉――
フランツ・カフカ
訳 中野孝次