この“審判”では、第三者からみたらどう考えても変だと思うようなことが、当事者にとっては当然のことに感じられる、っていうのが描かれているように思う。
Kの逮捕や訴訟手続き、隣人や社員への対応など、どれもこれも確実におかしいようにぼくには思えるし、それはぼくだけではなくて、いまを生きる多くのひとが感じることだろう。
それなのに同時に感じるこの作品のリアリティ。
本の外側の自分(読書するひとである自分)の感覚と、本の内側の自分(本の世界に没入する自分)の感覚のずれが、不穏さ、息苦しさ、座り心地の悪さといった得体の知れぬ違和感を生み出していると思う。
で、それはこの“審判”に限ったことではなくて、現実の世界でも、自分の持っている感覚とずれた世界で生きるひとに触れるたびにこの種の違和感を感じるのだ。
それはたとえば、どう考えても抗議すべき事柄に対してそれが当然であると受け入れているような場合にあてはまる。
個人差というものもあれば、社会差というものもあり、時代差というものもある。
ぼくにとっての違和感が誰かにとっては当然であったり、ぼくの属する組織からみれば変なことが別の組織では当然であったり、いまからみればおかしいと感じることがその当時では当然のことであったり。
逆もまたそうであって、ぼくが当然と思っていることでも誰かにとっては異常なことかもしれない。
で、実はぼく自身もこころのどこかでは、これはもしかしたら変かもしれないと感じながら、当然であると言い聞かせていたり。
Kが逮捕に対して抗うような行動をおこないつつ、一方では逮捕に巻き込まれたそのことがKの生きる意味に結びついているとでもいうように。
さて、〈人気のない法廷で・大学生・裁判所事務局〉の次には、〈笞刑吏〉となるのがブロートの配列なのだが、ビンダーによる研究でカフカが書いていったとされる順序に従って、〈Bの女友達〉に進む。
ちなみに、この〈Bの女友達〉は未完断章に分類されている。
〈Bの女友達〉のBは、Kの隣人のタイピスト、フロイライン・ビュルストナーのことである。
〈グルーバッハ夫人との会話・ついでフロイライン・ビュルストナーのこと〉のラストで、どういうわけかビュルストナーにキスの雨を降らせたKであるが、以来、ビュルストナーと会話することが出来ない状態になっていた。
Kの方はビュルストナーへの接触を試みるのだが、いつも巧みに逃げられてしまう。
もうほとんど、というか完全にストーカーである。
どうしてもビュルストナーと話がしたいKは、日曜日にはずっと部屋にいるから連絡がほしいと手紙を書く。
日曜日の朝、早くから、隣室が騒がしくなる。
下宿の別の住人である、モンタークという女性がビュルストナーの部屋に自分の荷物を運びこみ始めたのだ。
どうやら、ビュルストナーの部屋でモンタークが一緒に暮らすことになったらしい。
そして、ビュルストナーではなくモンタークから、Kに話があると申し出があった。
下宿の細長い食堂でモンタークから、話を切り出されるK。
Kはこのモンタークという女性のことをこころよく思っていない。
――つまりビュルストナーさんはご自分の口からはっきり返事をするのはいやだというわけですね、ぼくはそう頼んでいたんですが。
――そういうことです。あるいはまったくそうじゃないかもしれない、あなたはばかにはっきりと言う人ね。一般的な言い方をすれば、返事をすることが肯定されたわけでも、その反対が起ったわけでもありません。ただ返事を不必要とみなすことだって起りうるわけで、この場合がそうだというわけです。
モンタークから批判を受けるK。
やがてKは食堂から立ち去るが、突如思いついて、ビュルストナーの部屋をノックする。
返事がないので居留守をつかわれていると思ったK。
――そして前よりも強くノックし、いくら叩いても何の効果もなかったのでついに、なにかひどく不当でしかも余計なことをしているという感情もなくはなかったが、用心深くそっとドアをあけた。
けれども部屋には誰もおらず、なかにはビュルストナーとモンタークのための2つのベッドが並んでいるのを見ただけだった。
思い通りにならない訴訟の道のりと、なかなか会えないビュルストナーへの道のりの、互いの困難さがKをますます見えない糸で巻きつけていく。
追い詰められるというよりも、自分で自分を縛っているような、そんななりゆき。
――審判〈Bの女友達〉――
フランツ・カフカ
訳 中野孝次