――人々は戦時中のようにうすうすおかしいと気づきながら、自らだまされることを望んでいるのではないか。
大江健三郎さんが昨日鳴らした警鐘である。
Kの場合は、うすうすどころか明確にこの逮捕は無意味だと認識していながら、訴訟の目的ではなく手続きに対する批判を繰り返すに留まる。
それにしても、逮捕といえば通常は、「○○法第○条違反の疑い」などと告げられるのだろうが、何に違反したかも告げられないで逮捕されたならば、反論のしようがない。
何かこころあたりがあるひとなら、あれかな? それともあれかな? と訊かれてもいない罪を自ら告白して墓穴を掘ってしまいかねない。
自らがあらゆる法に対して潔白である、なんていえるひとはいるのだろうか。
ああおそろしい。
Kが銀行で忙しくしているある午後、田舎の小地主である叔父が訪ねてきた。
ふたりきりで話がしたいという。
叔父の娘である従妹が手紙で、Kが訴訟に巻き込まれているらしいと叔父に知らせたのだった。
――で、どうなんだこれは?
――ええ、叔父さん、それは本当なんです。
――本当だと? 何が本当なんだ? どうしてこんなことが本当なんだ? どんな訴訟なんだ? まさか刑事訴訟じゃあるまいな?
――刑事訴訟なんです。
――のほほんとここに坐り込んでいて、それで刑事訴訟を背負いこんでいるというのか?
――落着いていればいるほど結果はよくなるんです、怖れることはありません。
――そんな返事で安心できるか!
せっかちな叔父は、Kの意向などまったく無視して、友人の弁護士のところにKを連れて行く。
そのフルト弁護士の自宅は、例の裁判所事務局の近くだった。
弁護士宅でKと叔父を迎えたのは看護婦であるレーニという娘であったが、叔父は彼女を毛嫌いする。
病気で床に臥せている弁護士に面会するKと叔父。
面会の理由が見舞いではなく、Kの訴訟の相談であると知った弁護士はそれまでの病気が芝居であったかのように生気を取り戻す。
なぜかKの訴訟のことを話す前から知っていた弁護士。
――でもどうしてぼくのことやぼくの訴訟のことをご存じなんですか?
――私は弁護士でね、裁判所の連中と付合っていれば、いろんな訴訟の話、珍しい訴訟の話がでる、とくにそれが友人の甥御さんに関する事件であれば記憶に残ろうというものだ。
そして弁護士は、ろうそくのあかりの届かない部屋の隅の暗がりにたたずんでいた男を紹介する。
たまたま見舞いに来ており、Kと叔父の突然の登場に息を潜めていた男、それは裁判所事務局長だった。
奥にひとがいるなどとは思いもよらずに驚くKと叔父。
その後、事務局長と弁護士と叔父が話している内容が、自分と関係があることのように感じられないKは、皿の割れる音がしたのをきっかけに、どうしたのか見てきましょうといって、部屋を抜け出したのだった。
弁護士の書斎で待っていたのは、レーニだった。
書斎には大きな肖像画がかかっており、ぼくの裁判官かもしれないなとつぶやくKにレーニは予審判事であると答える。
――またしても予審判事か、身分の高い役人は隠れているんだな。でもやつは玉座のような椅子に坐ってるじゃないか。
――みんな作りごとよ、本当は古い鞍覆いをかぶせた台所の椅子に坐ってるのよ。でもあんたはそんなふうにいつも訴訟のことばかり考えてなくちゃいけないの?
――いや、そうじゃない、どうやらぼくはあまりにも考えなさすぎるらしいんだ。
――あんたの犯してる過ちはそれではないわね、わたしが耳にしたところではあんたは非常に強情なんですって。
――だれがそんなこと言った?
――それまで言っちゃしゃべりすぎることになるわね、だから名前はきかないでちょうだい、それよりあんたの欠点を直して、これからはそんなに強情を張らないようにしたらどうなの。この裁判所にたいしては誰も逆らうことができないのよ、みんな結局は白状してしまうのよ。
思わせぶりな仕草でKへの協力を申し出るレーニ。
――おれにはどうも女の助力者ばかり集まるようだぞ、初めはビュルストナー、それから廷吏の細君、それからこの小娘だ。
ビュルストナーはあきらかにKの勘違いだが、たしかに女の協力者が集まってくる。
しかし結局はそれもうやむやになるのだが。
レーニの部屋の鍵を受け取って、弁護士の家を出ると雨が降っていた。
待ち構えていた叔父は、Kを責める。
――どうしてあんなことをしでかしたんだ! せっかくうまく行きかけてた話を台なしにしてしまったではないか。薄汚い小娘としけこんだきりいくらたっても帰ってこない。しかもあいつは明らかに弁護士の色女なんだぞ。
またもや訴訟を有利に進める機会を潰したK。
いや、仮に、従順に裁判所事務局長や弁護士や叔父と相談したところで、結果になにか変わりがありうるのだろうか。
逮捕された時点で、Kの運命はもう決まっていたとはいえないか。
もしかすると逮捕されなくても同じ結果だったり。
自らの強情をレーニに指摘されたK。
さて、次はどう動く?
あるいはどう動かない?
――審判〈叔父・レーニ〉――
フランツ・カフカ
訳 中野孝次