西加奈子さんが激賞していたので読んでみた。
主人公の結佳と、ともだちの若葉と信子は小学4年生。
中学2年になった彼女たちは、それぞれ別々のクラスルームヒエラルキー、あるいはクラスルームカーストに属していた。
小学生の頃、みんなから憧れられていた若葉は、最上位の階層に属しながらも、その階層のトップたる小川さんの顔色をうかがいながら、必死でその立場を守ろうとしていた。
信子は冴えない最下位の階層に属し、やんちゃな男子たちからの意地悪の標的にされている。
そして主人公の結佳は中間の階層で、なんとか目立たないように地味で普通の女の子として過ごしていた。
けれども、結佳にはクラスメートに知られてはまずい秘密があって、それは小学校時代から一緒に習字に通っているクラスの人気者、伊吹への感情。
ヒリヒリするなあ。
この感じ。
学校って、ぼくのころにも独特の微妙な空気が漂ってはいたけれど、女子も男子も、こんなに明確にヒエラルキーがあったんだろうか。
こんなにあからさまな嫌がらせや悪い冗談っていうのを許す空気があったかな?
忘れているだけかもしれないけれど、ぼくには覚えがないなあ。
あんまりひどいのは制止するひとがいたと思うんだけどな。
そういう意味では、ぼくは、結佳がいうところの“幸せさん”だったのかもしれないけれど。
男子の自意識過剰のかっこつけっていうのは、ぼくにも記憶があるというか、そういうひとたちはたくさんみかけたけれども、女子の世界のどろどろは、うわさには聴いていたものの、もしこの小説がおおげさでないのなら、かなりおそろしいなあ。
こういうことを小中学生の時代に知っていたら、クラスメートたちに対してもう少し違った見方ができたかもしれないけれども、たぶん、知らなくてよかったんだろうね。
素直じゃない結佳にいらいらすることもあったけれども、ラストはよかった。
ぼくもそう思うよ。
みんなもそれに気づいたらいいのに。
それにしても伊吹はほんとうにいいやつだなあ。
ちなみにぼくの持論は、小中高からクラスをなくすということ。
自分の意志でとりたい授業をとって、授業ごとに移動したらいいと思うんだよね。
学年も取り払って、自分の実力に見合ったレベルの授業を受けるっていうことにして。
友だちづくりをしたいなら、強制的なクラスじゃなくて、部活や委員会活動なんかでもいいわけだし、そもそも学校じゃなくても地域や社会で横につながる機会がこどものころからある方がいいと思うんだよね。
学校に閉じ込めるんじゃなくて。
そういう国だってあるんでしょ?
どうもクラスっていうのが、世の中にはいろんな人間がいるっていうのを体験しておけ、っていう意図のような気がして、それってたしかにおとなになってから役に立つものではあるけれども、案外、おとなになってからでも、周囲の人間っていうのは、ある程度似通った知能レベルであったり、社会レベルであったりするような気がするから、かならずしも学校でバラバラな特性の人間を集めて狭い教室に無理に閉じ込める必要はないような気もするんだけどね。
クラスをなくしたら、いろんな人間と付き合う機会を失って、社会の寛容性がなくなったりするのかな?
――しろいろの街の、その骨の体温の――
村田沙耶香