蝉の鳴く夜 | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

蝉の鳴き声で目覚めるこの季節。


今宵は少し不思議な物語を。




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オサムはおよそ生き物が苦手である。


犬や猫にすら触れることができないのだから、いわんや昆虫をや。


夏の月の夜、オサムが終電で帰りついた駅からアパートまでの道すがら、アスファルトの道路の真ん中に蝉が仰向けの状態で転がっているのを見つけた。


いつもなら、当然のようにスルーするのだが、この日はなぜか立ち止まってしまった。


近付くと、どうにも蝉らしからぬ美しさ。


透明な羽に入った黒い筋が描く模様にもどことなく気品が感じられ、ふつうなら目を背けたくなる腹でさえもまばゆいばかりの純白。


オサムはしばし目を奪われてしまった。


ほとんど車が通ることはないこの道だが、このままにしておくときっと、踏まれてしまうだろう。


オサムはぎこちない指先でおそるおそるその蝉をつまみあげ、傍の街路樹の幹につかまらせた。


蝉はじっと幹にとまっている。


オサムがその場所を離れようと歩きかけたとき、うしろから、これまでに聴いたことのない蝉の鳴き声が響いてきた。


しんしんしん。


そんなふうにオサムには聴こえた。


翌日、オサムは珍しくクラシックのコンサートに出かけた。


一緒に行くはずだった恋人が急に仕事で来られなくなり、ひとりで聴くことになってしまった。


座席はバルコニーだった。


チェロの独奏のコンサートで、その深くやさしい音色にオサムはうっとりしていた。


曲の合間に、なんということもなく、向かい側のバルコニーに視線を向けたとき、なぜだかオサムの目は釘付けになってしまった。


そこに座る女性がこちらをじっとみているような気がしたからだ。


いつもなら、ただの気のせいだろうとスルーするところだが、この日のオサムは彼女がとても気になってしまった。


ドビュッシーの月の光をチェロのために編曲した演奏が終わった後、コンサートは休憩に入った。


のどを潤す飲み物を求める観客でバーは賑わっていた。


オサムはそこで彼女を見つけた。


艶のある黒髪は肩に届くか届かないかくらいのボブ、膝丈のふわりとしたスカートは純白でまばゆく、ノースリーブの黒のブラウスはシースルーで羽のように軽そうに見える。


どことなく見覚えのあるような顔立ちだが、どうしても思い出せない。


思い切って、オサムは彼女に声をかけた。


どこかでお会いしたことはありませんか?


彼女は上品に首を少し傾げた。


気のせいだったか、と思ったものの、見知らぬひとに声をかけた気まずさを解消するきっかけがないものかと次のことばをあわててさがしていると、彼女がおもむろにこう言った。


一杯、おごってくださらない?


なんだかうまく行きすぎているようだが、そのあと、なぜかオサムは彼女と意気投合し、コンサートが終わってからホールの隣のホテルのラウンジでワインのグラスを傾けあっていた。


今日のコンサートの感想からはじまり、好きな音楽やアーティスト、はたまた絵画や小説など芸術全般の話が膨らんだ。


オサムはとりたてて芸術に詳しいというわけではないが、彼女と話しているとどういうわけか会話が弾むのであった。


ついつい飲み過ぎてしまったのだろうか。


気が付くとオサムはホテルのベッドに横たわっていた。


バスルームからシャワーの音が聞こえる。


おそらく彼女がシャワーを浴びているのだろう。


オサムにはなにひとつ理解できる流れではなかったが、こうなるのも必然であるような気がどこかでしていた。


ふかふかのタオルをからだに巻いた彼女がバスルームから出てきて、寝ているオサムの傍らに腰掛けた。


ねえ、蝉ってどう思う?


彼女の発したそのことばの意味を拾い出すには、オサムは少し酔いすぎていた。


彼女はオサムの胸をやさしくなでながらことばを続けた。


ある種類の蝉は7年間土の中で幼虫として暮らすの。そして夏の月の夜に土から出てきて羽化し、成虫になるの。でもね、その命は短くて、ようやく羽を広げて飛べるようになったとしても、それはわずか7日のこと。その間に、メスはオスを見つけて次の命を授かるのよ。


部屋の照明は落としているが、外からは明るい月の光が注ぎ込んでくる。


しんしんしん。


やわらかい光が彼女の白い肌に反射する。


とても美しかった。


オサムはもうその後のことを覚えていない。


朝、目が覚めると、そこに彼女の姿はなかった。


不思議な夢だったのかもしれない。


けれども交わりの最後に彼女がこう言っていたような気がする。


次に会うのは7年後の夏の月の夜ね。





――蝉の鳴く夜――

鷹師