実は少し苦手な宮沢賢治さんの作品たち。
なんだろ、やさしすぎる、っていうか、毒気がなさすぎる、っていうか。
ぼくのこころがあまりにも薄汚れすぎて、ねじくれすぎてるせいなのかもしれないけれども。
そういうわけで、この作品もよく耳にはするものの、ついぞこれまで通読したことはなかったのだが、三連休の最終日、朝から降る雨にそっと背中を押されたように、この作品を手にとってみた。
独特の文体、表現。
わざとずらしたようなことばづかい。
ずらすことによってむしろ本来の意味が生き返ってくる感じ。
ゴーシュ、町の活動写真館、金星音楽団。
舞台が静かに揃っている。
三毛猫、かっこう、狸の子、そして、野ねずみの母と子。
森の動物たちとの音楽をめぐるあれやこれや。
もちろんそれらは意識されたものではないのだが、賢治は音楽療法というものを知っていたのだろうか?
チェロの音色は、森の動物たちばかりでなく、たしかにぼくのこころの痛みだってやわらげてくれる。
けっしてわかりやすい成長譚ではないのだが、あきらかにゴーシュは少しずつ何かに気づき、育っている。
ところで。
かっこうはなぜあれほどまでに傷つかなければならなかったのか?
誰も意地悪な気持ちなんて持っていなかったのに、どうして窓が開くのを待てなかったのか?
こういう部分に賢治の謎というか、賢治が感じる世の中の厳しさや哀しみがあるのか?
このわからなさは、ぼくの好きな他の作家の作品の不条理とはちがう感覚で、だからぼくは途方に暮れるのです。
――セロ弾きのゴーシュ――
宮沢賢治