武士の家計簿を著したひとといえばご存知の方もいらっしゃるだろうか。
磯田道史さん。
このひとの書く文章に少し前から惹かれていた。
新聞などにときどき掲載されているエッセイなどを読んでいて、このひとはすごく誠実なひとだと感じていた。
自分で認めるほどの古文書ヲタクだという。
有名無名の古文書を調べたおして、そこから得た知見や情報をわかりやすく文章にまとめて紹介している。
この本を読みたいと思ったのは、ぼくがもともと自己犠牲の物語が好きで、とある書評でこの本のなかの中根東里の逸話を紹介しているものを読んだから。
この本では、江戸時代の三人の人物の物語が描かれている。
穀田屋十三郎
中根東里
大田垣蓮月
どの話もほんとうに無私の日本人というタイトルにふさわしく、自分よりもひとびとのために生きていた無名のひとを克明に描き出している。
古文書から地道に拾い出したエピソードの数々には、時代を超えた鮮やかさがある一方、古文書の読み手である磯田道史さんの愛が満ちている。
ひとりひとりの物語も実に献身的でうつくしいのだが、この本の見どころは無名の人々に注がれた磯田さんの尊敬と愛情のまなざしであるだろう。
正直なところ、自己犠牲の物語が好きなぼくではあるものの、自分だけではなく一族郎党が犠牲になって利他のために生きようとする穀田屋十三郎の物語なぞは、すこし日本的な同調圧力、家意識、村意識に辟易とさせられるところもあるのだが、それもこれも書き手の磯田さんの思いの強さに、なるほどと思わせられるのである。
江戸時代からひろがり脈々と受け継がれ、戦後に急激に否定され失われていった日本的良心の美しさにも魅かれるものの、けれどもその危うさも感じるぼくとしては、これらの物語は懐古趣味と思えなくもないのだが、それでも磯田さんがこれを書きたくなる気持ちもわかる。
もしもこの本を読もうと思うひとがいて、そのひとが(ぼくのように)少々天邪鬼な考え方の持ち主だとしたら、あとがきをまず読むことをお勧めする。
そこには、この本を書くに至った磯田さんの動機が書かれていて、それこそがこの本の核心であるともいえると思うのだ。
ところで古文書に書かれたことはどこまでが真実であるといえるのか。
いまのぼくたちが書き残す文章と同じで、個人的な文章というのは脚色が多く施されているのだろう。
公的な文書とて、果たしてどこまで信じられるものか。
そこに、古文書探求のおもしろさと難しさがあるのだろう。
――無私の日本人――
磯田道史