それについて沈黙を通すひともいる。
それについて無視を決め込むひともいる。
それについて批判をするひともいる。
それについてのめりこむひともいる。
そんなAKBグループという現象。
総選挙で誰が一位になったとか、同僚とも友人ともまったく話題にのぼらない。
そもそもテレビでなにが起こっているかが話題にのぼることがないのでAKBに限ったことではないのだが。
けれどもみんな、誰が一位になったかを知っているに違いない。
同僚たちと訪れるカラオケでは2曲目にヘビー・ローテーションというのがみんなのお決まりになっている。
蜷川実花さんの映像がヘブンリーでエンジェリーなのがぼくのお気に入り。
(ちなみに1曲目はつけまつける。)
そういうぼくがAKBグループという現象をどう思っているかというと、結構好き。
10人くらいは顔と名前が一致する。
特に誰がどうということはないけれども、強いていえばこじはるさんがぼんやりした感じで好き。
とはいうものの、かわいい女の子たちが集まってわいわいやっていれば、その集合体からハピネスが得られるのだから、誰かというよりもやはりグループ全体が好きなのだろう。
おとなもこどもも、女性も男性も、あたりまえのことだけど、彼女たちを好きなひとたちは好き。
彼女たちについて、おおまじめに語るおとなの男性も多い。
AKBグループという現象には彼らの存在も含まれる。
彼らが彼女たちについて語っているのを見ているだけでも楽しかったりする。
いったい彼らは彼女たちの何に惹かれているのか。
ぼくとおなじように理屈抜きで、かわいい女の子たちのグループにただ癒されているというひともいるだろう。
でもおとなであるがゆえに、それを気恥ずかしく思って、妙な理屈をつけるひとたちもいる。
いわく、AKBは社会現象である。
いわく、AKBは政治の縮図である。
いわく、AKBは少女たちの成長物語である。
いわく、AKBはビジネス・モデルである。
エトセトラ、エトセトラ。
批判するひとたちも、無視するひとたちも、沈黙するひとたちも、結局そういうことを感じているのだろう。
総合プロデューサー氏の思惑にまんまと乗せられているのだとしても、実際にぼくには何のリスクも負わされていないわけだから、単純に好きなときに好きなように楽しむということでよいのではないか。
なんて言うと、まじめなファンから叱られるかもしれない。
また、もしかするとAKBグループという現象のせいで他の芸能文化が少しずつ壊されていて、長い目で見ればおおきな文化的損失を被る、という指摘もあるのかもしれない。
とにもかくにも、ぼくはこう思うのである。
いいおとなたちが、年齢や地位などの社会的属性の壁を越えて無邪気に語り合える対象は、いまの窮屈な世の中にはなかなか希少な存在なのである、と。