カテゴライズしようとする習性が、素直に作品に触れることを阻害する。
カテゴライズなんて嫌いなのに、生きるために日常的に刷り込まれている、それかこれかを分別する必要性にむしばまれている。
ついつい、これは私小説か完全なるフィクションかあるいはエッセイかと考えてしまっている自分に興ざめする。
どっちだって構わないじゃないか。
大正5年に書かれた原稿用紙10枚にも満たない掌編である。
父が息子をかわいいと思う気持ちと、息子が父に反駁する気持ち。
ぼくにだって覚えがある。
親から子への愛はいつだって片思い。
能勢五十雄の、父への批評は、反駁によるものなのか、照れの裏返しなのか。
能勢は、父を批評する時、語り手である友人の「自分」が父のことを知っていると認識していただろうか。
もしも時刻表を眺めてたたずむ男が能勢の父ではなく、「自分」の父だったならば、能勢はどうしただろうか。
あるいは、この小説の語り手が、自分ではなく能勢だったならばどういう描写になっただろうか。
短い作品であるがゆえに、読者であるぼくには、さまざまな余韻をたのしむ余裕が残されている。
そして、この短い作品をモチーフにして、長編だって書けそうな気がしてくる。
そういう意味では、このささいな一場面を見事に切り取り、潔く、さくっと掌編に書ききってしまう芥川龍之介の手腕と美学に惚れるのである。
――父――
芥川龍之介