傑作対談。
女も男も、老いも若きも、読んだらきっと元気になれる。
日本における女性学・ジェンダー研究のパイオニアである上野千鶴子さんと、著述家、ディレクターで「美人寿司」や「爆音クラシック」を主宰する湯山玲子さんの化学反応で、女の、人間の自由が爆発する。
湯山玲子さんのことはこの対談ではじめて知ったのだが、上野千鶴子さんは、泣く子も黙る、もとい、オヤジが泣いて逃げ出すあるいは顔を真っ赤にして怒り出すという先鋭的フェミニストとして、ぼくもかねてから畏れつつ気になっていたお方である。
とはいうものの、上野さんの著作をまともに読むのは実はこの本が初めてだったのだが、痛快なことこの上なしだった。
原発事故での、避難する自由としない自由、避難するひとたちが共有する「自分だけが」という罪悪感。
良くも悪くも存在する日本人のなかの見えない同調圧力。
信用できない政府の情報を無視して避難して何がいけないの? と言い切る。
原子力ムラのみならず、日本を支配しているのはオヤジ社会。
旧態依然の家父長的組織である。
オヤジ社会が何を守るかっていうと、生活者や消費者ではなく組織そのもの。
右側のひとも左側のひとも、男たちの多くは、結局のところオヤジなのである。
そこに乗っかった女性たちも、いつのまにかオヤジ化しているのである。
では、オヤジ化しなかった女性たちは信頼に足るのか。
エコ系フェミニスト、母性礼賛系フェミニスト。
どちらもそれぞれに胡散臭い。
子どもかキャリアかという、女の生き方を分けた百恵ちゃんと聖子ちゃん。
人気の絶頂期に結婚を機に引退した百恵ちゃんの潔さが、ともするとオヤジ社会を延命させた可能性があるし、子どもを産んでもまったくキャリアを損なわなかったばかりか、さらに輝きを増していく聖子ちゃんへのオヤジたちの評価は厳しかったりとかして。
そしてカツマー型アプローチの限界にも言及。
効率一辺倒のオヤジ型のライフスタイルを女性に求めることはみっともないって。
オヤジの土俵にオヤジのやり方で挑んでも不毛だということ。
それから女性たちに蔓延する「承認欲求」という病。
女性に限らないけれども、がんばったらそれなりに認められてきたひとたちが、がんばっても報われない現実にぶつかったときに、簡単に折れてしまうという状況。
それはたとえば、子育てであったり。
どんなに努力して接しても、子どもは期待通りの反応を返してくれるとは限らないからね。
子どもってそういうもので当たり前なのに、こんなにがんばってるのにわたしのことを認めてくれないなんて、って子どもに対していらだちを覚えてしまったり。
子育てが安定してきたら安定してきたで、子どもに犠牲を強いる、母というエゴイストという問題。
上野さんにも湯山さんにも子どもはいないけれども、いないからこそ言える、母であるということは、一歩間違えればエゴイストそのものになるということ。
そして、女性たちに蔓延するのは、ロマンチックラブという幻想。
たったひとりのあなたに、私をぜんぶまるごと受け止めてほしい。
そんなおそろしいことはない。
保険もきかないのに、ひとりの男に全部を賭けるなんて。
夢見る小娘ならまだしも、おとなの女がそんなことをぬけぬけといってちゃだめ、って。
突然ですが、「光合成」。
性の問題も軽やか。
「光合成」とは、文字通り、自分のからだで自らエネルギーを生み出すこと。
ひらたく言えば、自分で自分のからだを性的に慈しむこと。
回りくどく言えば言うほど、余計に淫靡になるのはなぜだろう。
ともかく、女性の「光合成」は、男性のそれと比べると、タブー視されることが多いし、女性自身もそう思っているようだけれども、そういうのは、社会的に限定的な規範に過ぎないし、そもそも、ひとに迷惑のかからない快楽ならば、好きなようにやればよいのである。
っていうか、「光合成」は、決してパートナーがいない寂しさの印象とは結びつかないはずで、パートナーがいても、それとこれとは別、別腹っていうことなので、みなさんどうぞ。
っていうくらい性の問題もあっけらかんと語られて、目からうろこがぼろぼろと。
これを語っているのは、1948年生まれの上野さんと、1960年生まれの湯山さんだということで、ますます説得力がある。
ほかにも、「自分の女の体を愛することと、アンチ挿入至上主義」とか「「予測誤差」があるほど快楽の刺激は強い」とか「マグロ化する男たち」とか「30代後半から40代にかけて、女の性欲はマックスになる」とかすごいですよ。
上野さんは、失礼ながら男性には性的に興味のないひとだというイメージを勝手に抱いていましたが、学生の頃も、性欲マックスの30代後半から40代にかけても、やることは十分にやったとのことで、お見それいたしました。
「絆」の二面性である、助け合いと縛り合いの問題にも言及。
そうなんだよね。
きずなきずなと連呼したところで、もはや三丁目の夕日の地縁、血縁の窮屈さには戻れないのだ。
それよりも未来性があるのは、自ら選択していく選択縁。
ある中学校で話をしていたときに、生徒から質問される。
「上野さんはどうしてそんなに強くいられるんですか?」
思いがけない質問に、初めて考えて答える。
「それはね、応援団、つまり仲間がいるからです」
性別、年齢を超えて、理解しあえる、それが無理でも応援しあえる仲間をたいせつにすること。
女性はそういうのが得意。
男はフラットなつながりを構築するのが苦手だから、縦の組織をつくってシステマティックに済ませようとするけれども。
人生も恋愛も仕事も生活も、「予測誤差」を楽しむ気概をもたなくちゃつまらない。
ときには大きすぎる誤差で頭を打つことがあるとしても。
――快楽上等! 3・11以降を生きる――
上野千鶴子
湯山玲子