女装日記 | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

男もすなる女装といふものを 女もしてみむとてするなり。


いま読んでる本の中でしばしば女装ということばが出てくるのですが、その用法があまりにもあたらしかったので、まだ読み終わっていないにもかかわらず、ちょっとそのことについて触れずにはいられない心境になったものですから。


その本とは、上野千鶴子さんと湯山玲子さんの対談である

快楽上等! 3・11以降を生きる

です。


この本のなかでの女装ということばの使い方は、いまのところのぼくの解釈では、女という記号をまとう、女という記号を装う、というイメージ。


男のひとで女装が趣味のひとがいらっしゃいますが(いや、ぼくのことじゃないですよ)、彼らがする女装を分析すると、つまりは男でありながら、女性的な記号、それはファッションであったり、仕草であったり、話し方であったり、思考方法であったり、そんなものを装うということであるといえるわけです。


その記号は、女性自らが装ってもなんら不思議はない。


むしろ男がする女装のエッセンスは、女性的な記号をよりわかりやすく象徴しているわけで、女性がそれを使わない手はないのかもしれません。


で、女性自らが、意識的に女装する、というときにこの女装ということばを用いています。


それはまさにその社会の文化としての女性性を活用するということ。


決して普遍的とはいえないそれを、意識的に装います。


ときとしてそれは、同性から見ていやらしい、卑しい印象になりえますし、男性に媚びているともとられかねませんが、みずからの自由の範囲を広げるために女装をうまく活用している女性も、現在ではたくさん見受けられます。


ユニセックスとか無性性とかにこだわるのもよし、女装(女の記号を装う)、男装(男の記号を装う)をたのしむのもよし。


性差を意識しすぎるあまり、変に意固地にジェンダーフリーにこだわることなく、使えるものは使うし、楽しいことは楽しむし、っていうそういうフットワークの軽さっていうのは、ぼくの望むところ。


ジェンダーからフリーになるだけでなく、ジェンダーフリーからもフリーになる。


男にすがるしかなくて媚びるために女性がする女装は避けたいですけどね。


ところでこの女装っていうことばの使い方、ぼくは初めて目にしたのですが、どのあたりまで広がっているんでしょうね?


もしやジェンダー研究のパイオニアである上野千鶴子さんだけ?