採用の面接で2人に絞り込んだ人事担当者。
2人とも人柄もよく能力も高そう。
甲乙つけがたい。
両方採用したいところだがそうもいかない。
ふるいにかけなければならない。
ふと思い立ってフェイスブックやツイッターやブログなどをやっていないかちょっと名前で検索してみる。
ひとりはやっていて、もうひとりは名前の検索ではひっかからなかった。
やっている方のひとりのSNSなどの内容を見てみると、それはいたってまともでそこから窺い知れるそのひとの交際の状況や考え方や暮らしぶりやこれまでの歴史は、一緒に仕事をやっていきたいと思わせるのに十分だった。
それを内々の決め手としてそのひとを採用した。
そんなうわさが広まって、職を求めるひとたちはこぞって実名でSNSをはじめるようになった。
会社の人事担当者も求職者のSNSをチェックするのがあたりまえになった。
SNSを実名でやっていないとその時点で採用の対象から外された。
直近に実名でSNSをはじめたひとも、あわてて就職のためにつくったことがありありと伝わってくるのと、情報量の少なさから、採用の対象から外された。
人事担当者のそういう動きが、その真偽はともかくとしてどこかから漏れ出して、うわさとしてひろまり、小学生のころから、SNSなどを始める社会情勢ができあがってきた。
ぼやっとしているひとは、好きなようにSNSにありのままの記録を残していて、就職活動が近づいてくるとあわてて記録を削除しなければならなかった。
削除してもその記録を復元する業者ももちろんあるのだが。
それでも最初の頃は、それぞれ模索しながら、各自でSNSをやっていた。
やがて、印象のよい記事を残すために、印象のよくなるであろう行動や考え方を実践するひとが増えた。
けれども、そういうまじめなひとばかりではなく、印象のよくなるような架空の記録をSNSに残すひとが出てきた。
最初は、創作能力や文章能力に長けたひとだけのわざであったが、やがて、SNSを本人になりかわって作成する業者があらわれた。
経済力のあるひとは業者に作成を依頼し、より印象のよいSNSがつくられていく。
本人は、ほんの少し自分の情報を業者に伝えたり、あるいはほんのときどき、SNSに書くためのよい行動などをしたりするだけ。
安価な業者も参入し、もはや誰も自分で実名のSNSを登録することはなくなる。
すべてのSNSは業者による作成。
そうなると、もう、どの人事担当者もSNSを調べようという気が起きなくなる。
一方、自分自身で発信したいことは、これまでどおり匿名で自分で発信する。
表向き、きれいな内容で覆われた実名のSNSと比べると、匿名のSNSはそりゃもう荒れ放題。
人事担当者の腕は、求職者の匿名のSNSを見つけ出すことに注がれることになる。
こうなると、今度は匿名のSNSに印象のよくなる記事を残す代行業者があらわれて、わざと本人であることを見つけさせるようなヒントを記事のなかに仕掛けておいて、人事担当者に見つけやすいようにしたりなんかして。
ぼくはこのブログしかやってませんが、フェイスブックやツイッターなど、上手に使えばたのしいツールも、その使い方しだいではおそろしい情報の詰まったパンドラの箱になりかねません。
就職のみならず、結婚相手のSNSをチェックするという習慣もすでにありそうです。
ぼくも呑気にたのしんでいるとはいうものの、そういう側面ももしかしたらあるのかな、なんて思ってみたりして、だからといって何かを変えるわけでもなく、ただ、情報の価値を見抜く目、というものは常備しておかないと危ないなと思うわけです。