弥生も末の七日、明ぼのの空朧々(ろうろう)として、月は在明(ありあけ)にて光おさまれる物から、不二の峰幽(かす)かにみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。
千じゆと云(いふ)所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。
行春や 鳥啼(なき)魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすすまず。
人々は途中(みちなか)に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。
短い文章に濃厚に感情と情景が注ぎ込まれている。
自ら望んで出る長旅。
慣れ親しんだ愛着のあるこの土地に再び帰ることがかならずしも当たり前のこととは思っていないという覚悟。
親しい人たちは日光街道の第一の宿場駅まで見送ってくれる。
旅に出る前の後ろ髪を引かれる思い。
行春や 鳥啼(なき)魚の目は泪
この句で思い出すのは懐かしい後輩のこと。
読書好きのそのひとが異動することになり、ちょっとした冗談のつもりで、あなたがいなくなることは悲しい、という意味でこの句をメールしたところ、
草の戸も 住替る代ぞ ひなの家
とメールが返ってきた。
わたしがいなくなってもまたあたらしいひとがやってきてこの職場にもあたらしい雰囲気が生まれることでしょう、といった意味で返ってきたのだろう。
そういうやりとりができるひとがいたことに最後の最後で気づいて驚くとともに爽快に感じたことを鮮烈に記憶している。
――奥の細道――
松尾芭蕉