大阪は上町台地とその東西だけじゃない。
河内・堺・岸和田をアースダイブする。
河内。
上町台地に渡来人が上陸する前から生駒山麓には人間が生活していたのはあたりまえ。
縄文系と海民系と弥生系のハイブリッド。
そうでしょうそうでしょうとも。
古代から考えたら人間の文化はどんどん交配しているのだ。
今東光さんの闘鶏の引用。
祝祭、興奮。
河内音頭。
死者と生者とが混じり合う。
このへんの表現で思い出すのは町田康さんの告白のなかの河内音頭のシーン。
あれは圧倒的に筆が唸っていた。
北河内。
天皇一族に敗れる前の河内は物部氏の世界だった。
交野の哮が峰(たけるがみね)は物部氏の先祖がやってきた宇宙船磐船号を着船させた場所。
というのは神話でカヤ世界からやってきた最初期の物部氏の先祖はこのあたりの自然の造形に精神的な関心を寄せたという。
このあたりの中沢新一さんの想像力はほんとうに自由だ。
生き生きと描写される。
天皇の一族を中心とするヤマト王朝に物部氏が滅ぼされたのちにこのあたりに住み着いたのは同じく渡来の秦氏。
物部氏といい秦氏といい平和的な産業者に好まれたのがこの地ということらしい。
堺と平野。
日本での市民社会。
平野と堺の環濠都市。
――だから私は大阪人に訴えようと思う。環濠都市の精神を取り戻そう。自分たちのまわりにもう一度、深い堀をめぐらせよう。支配の体制をくつがえし、自分たちの世界を自分たちで管理する時代をつくりだすために、大阪人は自由な都市人の子孫であることを、思い出さなくてはならない。
この文章がぼくは好き。
岸和田。
捕鯨とだんじり。
祭は共同体がみる夜の夢のようなもの。
夢は無意識の領域。
先祖の記憶が彼らを突き動かす。
あの激しい地車(だんじり)の祭はぼくはあまり好きではなかった。
なにゆえにあんなに命がけの危険なことをするのか。
死者を弔うならもっと静かなやりかたがあるんじゃないか。
けれどこの文章を読めば少しは考え方をあらためなければならない。
あの荒々しさには必然性がある。
海民の記憶。
疾駆する地車は海流にして高速船。
荒れた海流をいかに乗り切るか。
そこが海民の重要事。
さらに捕鯨と地車の関係。
この共通点を見出した中沢新一さんと江弘毅さんと釈徹宗さんのやりとりの現場にはぼくもいたような気がする。
鯨と漁師たちの関係は死闘ではあるけれどもそこには生命に対する畏怖が貫かれており失敗すれば自分が死ぬしその漁師は鯨の背後に神の存在を感じるほどだ。
そしてそれを象徴するのが岸和田の地車。
そうときけばあの荒々しい祭の背後にその土地の眩しい記憶の光を見ずにはいられない。
祭ごときに命を懸けるなんてばかばかしい?
何をおっしゃる。
命を懸けるだけの価値がある祭というものがあるのだ。
――大阪アースダイバー 【Appendix 河内・堺・岸和田―大阪の外縁】――
中沢新一