14歳
っていうと悩める自意識過剰時代の代名詞ですね。
ふだんは
360度どこからみてもおとなな考え方がすっかり板についているぼくではありますが
ときおり無性に14歳チックになってしまうことがあります。
今日の帰宅中
乗換駅での夜闇の中で
前ぶれもなくとつぜん14歳に戻ってしまいましたよ。
いわく
ぼくは罪びとである
という猛烈な罪悪感。
夜の闇にそのまま紛れて消えてしまいたくなるくらい
打ちひしがれました。
ほんの数分のことですけど。
たとえば
自分の属する組織に有利になるように
相手の組織の失敗に気付いても放置してみたり
みた感じホームレスかどうかよくわからない感じのひとが
路上で泥酔して倒れていても声をかけようとしなかったり
正義感を持って正しいことを訴えているひとに
同調せずに沈黙していたり
まあ挙げればきりがないけれども
そういうことがひどく苦痛に感じてしまったのです。
みずからのおぞましさに背筋がぞくぞくしましたよ。
自分のことを善良とはそもそも思っていないけれども
おぞましい自分を認めるのはなかなか難しいことです。
そういえば昔
サッカーの試合でボールがサイドラインを割ったとき
プレーに関与していた両方の選手が挙手しているのをみて
自分が最後にボールに触れて外に出してしまいました
と自己申告していると思っていました。
なんて正直者なんだろう
と。
でも違うんですよね。
相手が最後に触ったから自分がスローインできるはずだ
っていうアピールなんですね。
マイボール
とかいってますもんね。
これ
もしも自分が最後に触って外にボールが出たとして
審判が間違って相手が最後に触ったと判定したらどうでしょう。
いやぼくが最後に触りましたよ
っていうべきかどうか。
自分の正義を守るためにはその自己申告は尊いですけど
チームメイトからは冷ややかな視線を送られるでしょうね。
なにいってんだよ
って。
そんなことを気にしてプレーする選手なんていないと思いますけどね。
そういえば又吉直樹さんの自由律俳句に
ハンドを自己申告する小学生
っていうのがありました。
ほかにもたとえばこんな思考実験。
あなたが分かれ道の分かれ目に立っていると2人の知人が走ってきた。
1人はあなたの大切な人でもう1人は知っているだけでそれほど親しくもない人。
1人は右の道へもう1人は左の道へと走り去った。
しばらくしていかにも人相の悪い男がやってきて2人がどちらの道へ行ったかあなたにきく。
あなたはどう答えるか。
1 大切な人を守るために知っているだけでそれほど親しくない人が行った道を教える。
2 どちらも守りたいから自らが犠牲になるのを覚悟して何も教えない。
3 大切な人が行った道を教える。
4 どちらの道にどちらが行ったか具体的に教える。
ふつうは1を選ぶと思うがいかがでしょうか。
2を選ぶ人もいるかもしれないけどちょっと難しいですね。
3とか4は相当マニアックな選択です。
で
1を選んだ人を批判できるかというと
それはやはり無理だろうと思うのです。
しかし
1を選ぶということは苦渋の決断であって
善良ではあるけれども悪意がこもっている
ってことになるのだと思うのです。
そして
その決断の苦痛をその人は引き受けざるを得ないのです。
何を言いたいのかぼくもよくわからなくなってきました。
そういうことで
14歳に戻ることはもうやめることにします。
ごきげんよう。