宝ヶ池のあたりを散策してあなたをいつもの場所へ送り届けるとすでに5日目の月が西のまちに沈みかけていた。
あなたをあなたのうちの近くまで送るのはぼくの楽しみな習慣。
かわいい電車がはしるあなたのまちには石庭で有名なお寺があるしもう少し行けばミニチュアみたいな金色の建物もある。
なによりも表通りから一本入ると狭い路地が入り乱れるこのまちなみの風情が好きだ。
さよならのあとさすがにブレーキランプを5回点滅させたりはしないけれどあなたがぼくを見送る姿をルームミラーからちょっとみるのが心地いい。
はずだった。
いつもなら。
けれどもこの日ばかりは勝手が違っていた。
ぼくは平静を装うのに精一杯だった。
宝ヶ池のほとりを一緒に歩いているときあなたはふいに立ち止まってうつむいた。
--どうしたの?
--ううんなんでもない。
--そう?
けれどもあなたは動かない。
このときぼくはまだこのあとに続くことばをなんにも予期していなかった。
--もしかして疲れたとか?どこかで休む?
いま思えばとんちんかんな問いを発したものだ。
しばらくの沈黙ののちあなたはうつむいたままこういった。
--わたしたち・・・。
さすがに鈍感なぼくでも発した問いとはつながらないあらたまった語りだしにただならぬ気配を察する。
--わたしたちこのままじゃおたがいにしあわせになれないと思うの。
うわっきたよ。このおなじみのフレーズ。このことばのあとにろくなことばが続いたためしがない。
--ええっとそれってどういう意味?
--きみがわたしにしてくれるやさしい行為の数々やきみがわたしにかけてくれるやさしいことばの数々は最初のころのわたしにとってはとてもとても幸福なものだった。けれどもいつのころからかこれはなにかちがうなって気づいたの。きみはだれにとってもやさしい行為とやさしいことばで接していてきみにとってわたしだけが特別な存在ってわけではないことがわかったの。
--それってぼくの気持ちがあなたに伝わっていないってこと?
--そうきみはわたしだけをたいせつにしてくれているわけじゃない。ただなんとなくふつうに誰にでもしているようにわたしにもやさしくしてくれているだけ。きみのわたしへのやさしさときみのあらゆるものへのやさしさはおなじもの。
--それってあなたにだけやさしくしてほしいほかのひとにはやさしくしないでほしいってことなの?やさしいというかこれはぼくの性格的なものだからなあ。そこが気に入ってくれてると思ってたんだけど。
--これはいわないでおこうと思っていたんだけどそもそもきみはやさしくない。自分では自分のことをやさしいと思っているみたいだし関係の浅い人にはじゅうぶんにやさしいひとに思えるだろうけれどもそうではないことがだんだんとわたしにはわかってきたの。きみのやさしさはかるくてうすいのよ。
ことばを重ねるたびにお互いがお互いを傷つけていく。
決してこころからそう思っているわけではないことばまでもが口をついて出てくる。
あたかも相手を傷つけることを欲しているかのように。
やめようと思ってもことばを飲み込むことができない。
ことばがことばを連れてくる。
もはやことばに意味はない。
あるのはことばを押し出す感情だけ。
--ごめんなさい。わたし疲れているみたい。もう帰りましょう。
あなたをいつもの場所へ送り届ける道すがら車内は真空のような沈黙に包まれていた。
あなたから借りたまま車に置きっぱなしになっている小沢健二さんのアルバムが再生されているけれどふたりは押し黙ったままそれぞれがそれぞれの考えを整理していたに違いない。
少なくともぼくはそうだった。
自分で自分のことをやさしいと思っているだって?それはちがう。たしかにまわりのひとはぼくのことをやさしいひとだねっていうけれどもぼく自身は自分がやさしくないことをよく知っている。ほんとうのやさしさはこういうのじゃない。かるくてうすいやさしさ。まさにそのとおり。ぼくのやさしさにはおもさやあつさがない。そのことでもっとも苦しんでいるのはぼく自身なんだ。ぼくにとってあなたが特別な存在ではない。もしかしたらそうなのかもしれない。ぼくはあなたのことを誰よりもたいせつに思っているつもりだけれどもあなたにそれが伝わっていないのならそれはやっぱりぼくの思いがかるくてうすいせいかもしれない。あなたがぼくに求めているほんとうのやさしさっていうのはどんなものなのだろう。ぼくはそれを知ることができない。そしてうすうすこんなふうにも思っている。きっとぼくはあなたが求めるほんとうのやさしさを知ったとしてもそれをあなたに伝えることはできないだろうと。ああどうしてあなたは気づいてしまったのだろう。あなたがかるくてうすいやさしさでも満足してくれるおおらかなタイプだったらよかったのに。あなたの感性の鋭さがうらめしい。
いつもの場所へたどり着いたときにはすでに5日目の月が西のまちに沈みかけていた。
ぼくはぼくを見送るあなたの姿をルームミラー越しにすこし見つめてからアクセルを踏んだ。
あなたは戸惑いつつも無理に微笑を浮かべているかのようだった。
アルバムはちょうど東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブローが終わったところで続いていちょう並木のセレナーデが流れ始めた。