ありもしない意味を条件反射的に見出そうとする愚かな習性 | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

阿部和重さんの

和子の部屋 小説家のための人生相談

のなかの

朝吹真理子さんとの対談で

特別な意味を持たせずに書いた文章を

批評家などが

これは●●のメタファーだ

などということについて

苦言を呈しているくだりがあります。


たとえば

意味ありげな物語のながれのなかで

煙突

ということば(記号)が出れば

もうそれは男性器にしか思えなくなる批評家がいる

と。


ああわかるなあそれ。


そういう刷り込みにだいぶ毒されてしまっているからなあ。


ぼくにもおなじ経験があるのを思い出しました。


加害者として。


仕事の研修で教えを請うていたとある先生は

専門外でも美術への愛が深かったのですが

あるとき自作の絵をプリントしたTシャツを

自慢げに着てらっしゃいました。


せっかくなのでぼくは

それへの感想を述べてみようと試みたところ

失敗したのです。


抽象的でシンプルなその絵には

縦に貫く一本の長い線が引いてあったのですが

それをみて

もしかして男性的なたくましさをその線で

シンボリックに表現されていますか

と伝えたところその先生に

それは一切ないよ

とやさしく否定されました。


ああうかつ。


完全に定型化された記号の論理にはまっていました。


ずいぶん以前に読んだダ・ヴィンチ・コードのせいかもしれません。


ちなみに同席した友人はその絵に対して

余白が静かに語っていますね

みたいな感想を言って先生を喜ばせていました。


(気に入ったのでそのコメントは

その後ぼくも各方面で使わせていただいています。)


それ以来かどうかは忘れましたが

それをきっかけのひとつとして

ある特定の対象に何らかの意味を見出そうとしかけたら

自分自身でブレーキをかける習慣がつきました。


ステレオタイプの反応禁止令を自分に課したわけです。


ものごとにはかならず意味があるなんて思っちゃ駄目。


みなさんもお気をつけあそばせ。