今日のはね
ちょっとひかれるかもしれません。
いや
本人はいたってまじめなので
お気に召さない場合は
スルーしていただければ
ありがとう存じます。
夕刊で
作家の赤瀬川原平さんが
「何気なく隠す」難しさ
と題して
温泉のマナー
という記事を書いていた。
いわく
タオルで何気なく局部を覆うという
微妙なマナーが消えかけている
と。
おお
なるほど
と思う。
我が身を振り返る。
思春期の頃までは
温泉や銭湯にはいるとき
ぼくも前を隠していた。
タオルを腰に巻くというやり方なので
お尻も隠していたと思われる。
まあ実際は
小さいタオルなのでお尻は丸見えなのだろうが。
ところが
思春期を過ぎたあるとき
突如ぼくにこんな考えがひらめいた。
隠すということは
なにかやましいところがあることを
自分で認めているからだ
前はなにも恥ずかしいものではない
ならば自然体でさらけ出すべきではないか
お風呂は
生まれたままの姿になるべきところである
みんなが隠しているからという常識に囚われてはいけない
自由になるべきだ。
その日からぼくは
温泉や銭湯
はてはプールの更衣室でさえ
前を隠さないことにした。
たくましい若者が
前を隠している姿を見かけようものなら
こころのなかで
肉体的には負けていても精神的には勝っている
と思った。
そして今日に至る。
今日の赤瀬川原平さんの記事を読みながら
式亭三馬さんの
浮世風呂
を思い出し
あらためて読んでみた。
熟(つらつら)監(かんがみ)るに、銭湯ほど捷徑(ちかみち)の教諭(おしえ)なるはなし。
から始まって
湯はぶくぶくと鳴(なり)て、忽(たちま)ち泡を浮(うか)み出(いだ)す。
で終わるあれである。
全文なのかどうかは知らないが
あらためてこの文を読むと
思春期以降のぼくの考えが
いかに
自意識過剰で恥ずかしい考えだったかが
わかってしまった。
色好(いろごのみ)の壮夫(わかいもの)も裸になれば前をおさえて己から恥を知り
である。
そういうわけで
今後は奇妙な屁理屈で前をさらけ出すのではなく
奥ゆかしく隠すという美徳を心がけようと
肝に銘じたのだった。
それにしても
式亭三馬さんの浮世風呂
リズミカルでことば選びのセンスも抜群でユーモアに富んでいて
最高の文章であることよ。