日曜日から月曜日にかけての夜。
なんだか寝苦しい。
もぞもぞとする。
もしかしたら起きてから仕事に行くのを身体が拒否しはじめているのではないかと思う。
あるいは風邪のひきはじめか。
いまは何時ごろだろう。
睡眠不足の週はじめは1週間の仕事に響く。
ぐっすりと眠れないのならやむなし。
起きるか。
しぶしぶ布団からはい出す。
ささむい。
午前3時。
カーテンの外は暗闇。
起きて寝室を出る。
なんとなく椅子に座る。
しばらくすると鼻が詰まっていることに気づく。
日付を思い出す。
1月23日。
もしやこれは今年の花粉症の初日ではないか。
そうに違いない。
思い返せば毎年1月の下旬にはこういう場面に出くわしている。
相撲ではその場所ではじめて勝ち星があがったことを初日が出たという。
花粉症の初日が出た。
はれやかな初日の出にも似たその文字面もこのときばかりは忌々しい。
そういえば昨日は散歩で外出していた。
花粉をたくさん吸い込んでしまったのであろう。
花粉症とわかれば話ははやい。
わずかに残る去年の薬を飲む。
エバスチンOD錠とブランルカスト錠。
数年前から医師の奨めで処方してもらっているジェネリック医薬品だ。
今年も憂鬱な春が始まってしまった。
季節はこれからが寒さの本番だというのに皮肉なものである。
これからの3箇月は薬とマスクの日々である。
好きな散歩も控えざるを得ない。
薬を飲むとプラシーボ効果かもしれないが鼻づまりの症状が改善したような気がする。
あと2時間でもとりあえず寝ておこう。
目が覚めると鼻づまりはすっかり収まっていた。
花粉症ではなかったのかもしれないとも考えるがここで薬をやめるとやっぱり症状が出るのではと思うとやめられない。
みえない花粉は非常にやっかいである。
マスクをつけて外に出て思い出した。
眼鏡が曇るのである。
鼻から吐き出す息がマスクの上部の隙間を抜けて眼鏡に触れる。
体内であたためられた息が外気に冷やされた眼鏡のレンズに触れて結露。
すっかり視界は五里霧中。
眼鏡をはずそうかとも思う。
しかしはずすと今度は花粉が直接目に侵入するリスクが高まる。
花粉症にとって眼鏡とマスクはセットで必要なのだ。
白いレンズのマスクの男になる。
不審者だ。
夜に帰路に着く。
暗闇でも眼鏡は曇る。
はっきりいって危ない。
曇ったレンズに映る街灯のひかり。
にじむ。
1週間の仕事を終えようやく土曜日となる。
予約していた耳鼻咽喉科に出向く。
診察はわずか1分足らずで終了。
いつもどおりの薬を処方される。
まあ目的は薬なのでそれでも構わない。
けれども思う。
この1年で薬以外のあらたな治療法は臨床にまわらなかったのかと。
しばらく前にNHKスペシャルでアレルギー研究特集が放映されていた。
そのなかで毒をもって毒を制す的な治療が紹介されていた。
アレルギーの原因物質を毎日微量注射したり舌下に投与して耐性を強めるというものだ。
確かに薬はいらなくなるが毎日注射したり舌下に投与したりするのなら3ヶ月間薬を飲み続けるのとそんなに大差はないなと思った。
もっと画期的な方法は開発されないものか。
春は憂鬱だ。
本当はいのちの力があふれ出す始まりの季節なのに。
今年の春はさらに3・11がある。
去年のいまと今年のいまは全く違う状況になっている。
もうすぐ1年だ。
阪神淡路大震災のときの1年後はどうだったかな。
東日本大震災の被災地の1年後はやはりそれ以上に厳しいように感じる。
それもこれも原発と世界的な不況のせいだ。
いまだに日本という社会は力強く復興に向けて歩き出せる環境を整えられずにいる。
3・11とか1・17とか9・11とかこういう表記になにかうそくささの気配が漂う。
なぜ3月11日とか1月17日とか9月11日と表記しないのか。
文字数か。
3月11日を3・11と表記する感覚はなにか。
記号化することで本当の姿をみえにくくしているような気がする。
ぼくも意図的にではないがつかっているときがある。
なぜだろう。
2月29日が4年ぶりにやってくる。
2月29日生まれの人は365×4+1=1,461人に1人いる計算になる。
はやくいえばそれ以外の日に生まれた人の4分の1の割合だ。
2月29日生まれの人は自分の誕生日をどのように祝うのだろう。
2月28日に祝うのか3月1日に祝うのか。
はたまた4年に1度しか年をとらないなんてうそぶいていたりするのだろうか。
ならば80年目で成人式を迎えることになるのか。
いまどきならば検索すればすぐにわかるのだろうが面倒なので調べない。
勝手に想像して楽しむことをぼくは選ぶ。
それにしても2月29日と表記するか2・29と表記するか。
それが問題だ。
てなことを耳鼻咽喉科からの帰り道にマスクをつけ眼鏡を白く曇らせて歩きながら考えていた。
ぶつからないように気をつけて。