読者も
作者も
編集者も
そろそろかなと
思ってはいる
第ニ七集。
やめるのにはものすごくパワーがいる話
どーせまた○○だからって考えて今やらない話
梅雨の雨女のごとく埋没する話
昔の情報が他人の中で更新されずに残っている話
無権代理のスラックティビズムの話
兵法三十六計の第四計 以逸待労の話
など
今回もいろんな視点からのお話でした。
知らないことばも知りました。
今ある世界は5分前に始まったという仮説の話
なんて
最近のぼくのテーマみたいで
おもわず偶然のタイミングに唸りました。
とまあ
いつもどおりそれなりに楽しんだわけですが
実はもっとも興味をひいたのは
巻末の紙ブログ。
いわれてみれば
毎集下一桁が一話から十話までになるように
きれいに収められているのに
今集の最終話は第二百七十一話。
よくみると
第二百六十八話が欠番になっています。
実はその話が週間少年マガジンに掲載された際
とある漫画の内容と酷似しているとの指摘があり
調べてみると本当に似ていたので単行本への
掲載を見合わせたとのこと。
なんとその漫画とはドラえもん。
久米田康治さんによると
もちろん意図的に行ったことではないものの
実際に自分が少年時代には必ず読んでいたに違いない
ドラえもんであることから
自分への戒めとして自主的にお蔵入りにしたとか。
こうやって考えると
創作っていうのは難しい時代になっているなあ
とつくづく思う。
このことを小学館のドラえもんルームに報告したところ
「著作権者(藤子プロ)とも協議しましたが、故意ではないのは明白なので、全く問題ありません。この業界、偶然似ちゃったということはよくあります。ドラえもんが久米田先生の血となり肉となっていて、記憶の奥底にあったのかもしれませんが、それは光栄なことです。わざわざご連絡ありがとうございます。」
との返答がきたとか。
この返答
なかなか誠実でいいですよね。
目くじらを立てようと思えば
立てられる話ですからね。
さすが藤子プロ
やさしいです。
それにしても
他人の作品と似ているといわれるのは
つらいですよね。
ましてや自分が意識していないとなると
知ったときにすごくがっかりしそうです。
自分のオリジナルではなかったのか
って。
川上未映子さんの
すべて真夜中の恋人たち
のなかで
石川聖が引用について語っていますが
まさに自分のことば、行動、感情までもが
誰かの引用なのではないかと考えはじめると
げんなりします。
実際そういうところありますし。
まさに文化なんて
前の世代の引用によって成り立っている
わけですし。
ぼくらの恋愛感情ですら
先例がなければ感じることができないのかもしれません。
話が逸れました。
そんなわけで
何らかの効果を狙った意図的な引用も
知らずに似てしまったケースも
どちらにしても創作家泣かせの
時代であるのは
どうやら避けようのない事実のようです。
ややこしや。
-さよなら絶望先生 第ニ七集-
久米田康治