気持ちがどんよりするとの
前評判により
手を出しにくかったのですが
昨日の夜から読み始めて
一息で
読んでしまいました。
各方面での
書評や
情熱大陸や
トップランナーや
読書サロンでも
さんざん話題に
上っていたので
先入観も抱いていましたが
読んでみると
案外
気持ちが
どんよりするわけでも
なかったです。
しかし
作品全体に
緊張感がみなぎっているように
感じました。
それは
川上未映子さんが
自分の特徴である
途切れない文章を
封印して
抑制した一般的な文体で
表現することにより生じた
ちょうどいい緊迫感のようなものだと
感じました。
文体は変わっても
世界観や言葉選びには
川上未映子さんの
独特の味わいが
あって
ファンの期待も
裏切りませんでした。
苛め(ひらがなのいじめではなく)
の描写については
残酷すぎるという評も
きかれましたが
ぼくの想像力が
劣化しているせいか
それほど苦には
感じませんでした。
むしろ
主人公の「僕」や
コジマの
考え方からすると
真実に到達するための
あるいは祈りにも似た
苦行のようにも
感じました。
百瀬のいっていることは
確かにそういう考え方はあるよね
と思いつつ
ニヒリズムに近いようにも感じましたが
その背景には
百瀬が
(体育の授業をいつも
見学しなければならないような)
なにかしらの
ハンデキャップを
抱えているという事情が
あるのではないかと
思います。
そういう意味では
百瀬も悲しい人間です。
コジマは
殉教者のような道程を
選んでしまったところが
痛々しかったです。
あえて苦痛を受け入れていく姿は
角度によれば
ある種の驕りにも
つながるかもしれません。
コジマの「僕」に対する
連帯感も
「僕」の気持ちをおもんぱかって
というよりも
コジマの独りよがりな
側面を感じてしまいます。
ニーチェなら
こういうのを滑稽といって
笑い飛ばすでしょう。
二ノ宮とそのとりまき
さらに傍観者たちは
はっきりいって
頭がおかしいですが
それが許されるっていうのが
学校という閉鎖された
社会の不条理なんですよね。
「僕」の母さんは
不思議な雰囲気で
救いのような存在でした。
はじめのころで
コジマが
「僕」の髪を
切るシーンが
すごく好きです。
いずれにしても
骨太かつ繊細で
読者に対して挑戦的かつ
読後にもしばらく何かを考えたくなる
そんな意味のある
作品です。
とにかく
もう1度
読み直してみます。
-ヘヴン-
川上未映子