村上春樹と小澤征爾、欧米文化にかろうじて並んでくれた二人〜ノーベル文学賞騒動を顧みて | 作家・土居豊の批評 その他の文章

村上春樹と小澤征爾、欧米文化にかろうじて並んでくれた二人〜ノーベル文学賞騒動を顧みて

村上春樹と小澤征爾、欧米文化にかろうじて並んでくれた二人 ノーベル文学賞騒動を顧みて

 

※参考記事

 

村上春樹氏 今年もノーベル文学賞受賞ならず 小学校時代の同級生は「候補になるだけでも大したもん」

2024年10月10日 東スポ

https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/319746

 

ノーベル文学賞に韓国の作家 ハン・ガン氏 アジア出身女性で初

2024年10月10日 22時17分 NHK

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241010/k10014605611000.html

 

 

 

 「春樹ノーベル文学賞」ネタが、ネット上で大喜利状態になることも、もはやなくなった。いまや、春樹のことはネット上でも現実でもほぼ、愛読者だけの話題に落ち着いている。それで、十分だろうと、筆者は思う。

 

 村上春樹がノーベル文学賞をもらうかもしれない、と言われた2006年あたり、彼がチェコのカフカ賞を受けた頃から、報道もネット上の祭りも盛んになった。

 思うに、その頃が、おそらくは日本文化・芸術が欧米先進国にかろうじて並ぶことのできた、最盛期の終わりだったのだろう。それ以後、春樹の小説が欧米で(あるいは世界中でも)話題となる程度は徐々に減っていき、フェードアウトするように現在にいたったのだといえる。

 

 唐突ながら、小澤征爾の場合も似ている。小澤征爾が「セカイのオザワ」と呼ばれて、村上春樹に少しばかり先んじて同じような道を突き進んだ。

 「セカイのオザワ」としての小澤征爾の最盛期は、おそらくは2002年、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に指名された時点で頂点を極め、その後は急速に勢いを失っていった。晩年の小澤は、ステージに立つことができればそれが貴重な記録になるという、音楽界の敬老の対象となっていった。

 欧米芸術、この場合は音楽と文学だが、日本人(小澤の場合、生まれは満州国だが)のアーティストや作家が、欧米メジャーの文化芸術で対等にネームバリューを得た例は小澤征爾が初めてだった。

 続いて、数年遅れで村上春樹もその位置を得た。この二人は、ちょうど日本の1980年代バブル景気前後に、欧米に対してネームバリューを確立することに成功した、稀有な存在だった。

 その後2002年以降、小澤は急速に存在感を薄れさせていく。一方、「セカイのオザワ」から数年遅れで、村上春樹は「セカイのハルキ」となった。2006年、村上春樹は『海辺のカフカ』という欧米文学の基礎を巧みに換骨奪胎した小説を武器に、タイトルのモデルの作家カフカの母国チェコの文学賞・カフカ賞を受けた。その時点が、おそらくは作家・村上春樹の頂点だったように思う。

 皮肉なことにその後、日本国内でミリオンセラーとなった『1Q84』は世界中でも売れて、おそらくは売れすぎたのだ。これを境に、春樹は欧米を中心に流行作家扱いを受けた。その後は、春樹自身の年齢が上がるごとに、作品の方は流行遅れとなっていく。

 基本的に、流行作家はノーベル文学賞をもらえないという傾向がある。そのため、春樹はノーベル文学賞のイメージからますます離れていった。

 

 小澤は80年代〜90年代に世界(欧米)のクラシック音楽の頂点の地位について、まもなくその地位を離れて(追われて)母国日本に回帰した。同じように、春樹も世界(欧米だけでなく)の流行作家扱いとなり、やがて廃れていき、現在はすっかり母国日本の権威ある「作家様」におさまっている。考えてみると二人とも、世界に冠たる足跡を残したのち母国で余生を過ごすという、かつてないほど幸福な日本人の例となったといえる。

 この先、音楽であれ文学であれ、この二人に匹敵する成功を世界で収めて、その余生を母国日本で悠々と過ごせるような芸術家、作家が現れるだろうか? 残念ながらもう無理かもしれない、と思えてしまう。

 

 

 

 

※参考記事

【小澤征爾追悼】「世界の」小澤と「世界の」村上春樹

https://note.com/doiyutaka/n/nda901739a5dc

 

記事引用

以下の拙稿は、10年ほど前から、もし村上春樹がノーベル文学賞を受賞したら、出そうと思っている予定稿だ。まず、ご笑覧いただきたい。

《村上春樹はとるべくして受賞した。すでに日本人は小澤征爾が音楽で世界の頂点にたっている。遅れること数十年、やっと文学でも世界の頂点を極めたといえる。

わかりやすくいうと、世界中どこのCDショップにもセイジ・オザワのCDがあるように、いまや、世界中どこの書店にもハルキ・ムラカミの本がある。オザワがなぜ世界中で聴かれているかというと、もちろん演奏のすばらしさは折り紙付きだが、なによりオザワの指揮が、難解に思われがちなクラシック音楽の間口を広げたからである。

同じように、ハルキの小説は、深遠なテーマをわかりやすく噛みくだいて、誰でも読めるよう間口を広げたところに、世界で愛読される理由があるのだ。》

 

 

小澤征爾のオペラの思い出 ヘネシー・オペラ・シリーズ・ヴェルディ『ファルスタッフ』

https://note.com/doiyutaka/n/nacb8f06204e0

 

ヴェルディ『ファルスタッフ』

指揮:小澤征爾、演出:デイヴィッド・ニース、舞台デザイン:ジャン=ピエール・ポネル

サー・ジョン・ファルスタッフ:ベンジャミン・ラクソン、クイックリー夫人:フィオレンツァ・コソット、ナネッタ:ドーン・アプショー 他

新日本フィルハーモニー交響楽団

1993年5月16日、尼崎・アルカイックホールにて

 

 

 

※土居豊の文芸批評

村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版と新作1

https://note.com/doiyutaka/n/nc68693cc0b25

 

村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版と新作2

https://note.com/doiyutaka/n/nec4c3577cf8d

 

村上春樹『街とその不確かな壁』の彼女の正体は?

https://note.com/doiyutaka/n/n0266ed29df2f

 

村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版中編「街と、その不確かな壁」を読んで、「街」のモデルを特定した!

https://note.com/doiyutaka/n/n495ab95b92b8

 

 

 

※『村上春樹を歩く・その後 〜読書会と文学聖地巡礼の試み〜』土居豊 著

https://amzn.asia/d/eGw3d5I

 

《村上春樹の故郷・西宮市を中心に「村上春樹読書会」を長年主催してきた筆者は、本書で活動のまとめを試みたい。

前半第1部は「村上春樹読書会」参加者たちの春樹愛や、アンチ春樹の意見など、読者の生の声を紹介する、筆者の新聞連載をまとめた。

後半は、かつて筆者が足を運んだ春樹ワールド聖地巡礼による作品考察を通じて、本を読んだ後から始める読書体験の試みを再構成して収録する。》

 

※文芸批評『村上春樹の猿〜獣と嫉妬と謎の死の系譜』浦澄彬 著

https://amzn.asia/d/9btJDxZ

 

《村上春樹の初期3部作は叙述トリックだった?

デビュー当時から村上春樹の小説の最大の特徴とされ、読者や批評家たちを夢中にさせたクールな語りこそ、語り手の本性が「獣=猿」であることを隠す叙述トリックとなっていた、という仮説。

それを考えるきっかけは、デビュー作『風の歌を聴け』から『ノルウェイの森』を経て近作まで共通して現れるモチーフ、「猿」・「猿のコンビ」・「獣」である。》