生駒ビル読書会カズオ・イシグロ 『わたしたちが孤児だったころ』&次回は小川国夫没後10年読書会!
生駒ビル読書会カズオ・イシグロ 『わたしたちが孤児だったころ』&次回は小川国夫没後10年読書会!
生駒ビル読書会2月28日 カズオ・イシグロ 『わたしたちが孤児だったころ』
https://ameblo.jp/takashihara/entry-12349790907.html
生駒ビルヂングの地下の図書室での読書会、今回はカズオ・イシグロ 『わたしたちが孤児だったころ』を読みました。
以前、映画か、ドラマ化もされた『わたしを離さないで』を取り上げましたが、ノーベル文学賞受賞後ということもあり、参加者の関心はもっと高くなったようです。
様々な意見を論じ合いましたが、まず、語りのメタ構造に注目しました。この小説ではメタ化が凝っていて、回想する起点がさらに過去の時点である、という三重構造になっているのが特徴です。
物語は有名な探偵を主人公に、英国ミステリーの伝統をなぞるように見えて、実はそのパロディになっており、なかなか一筋縄では読み解けません。
主人公で語り手の探偵クリストファーですが、実は、書かれている通りの探偵である必要はないのです。「世界を救う」使命を担っている正義の味方、という意味づけがなされているので、これは誰であっても、入れ替わることができるといえます。
例えば、探偵ではなく、小説家であっても構わないわけです。あるいは他の仕事、誰か一般の人でも、同じように物語は成り立ちます。
つまり、この小説は「セカイ系」の先駆のような(あるいはシンクロして同時的にできた)作品だとみなすことができます。
正義・理想と現実の世界のギャップを、主人公が自分個人の問題として背負い、自ら活劇の中に飛び込んで、いわばアニメのセカイ系主人公のように個人の問題を解決することで世界を救う、という流れになっていきます。
世界を救う=ブラインドの留め金であること、という定義が語られ、世界がバラバラにならないように支えている子供たち、というイメージが描かれます。
一方、典型的な小悪人としての、主人公のおじ・フィリップと、その背後にいる「ラスボス」的な巨悪の軍閥、という、いかにも勧善懲悪の設定がしてあり、物語としては破綻のない構造に作っておるのです。
結末で、主人公が年老いたのちに、救いとして養女のジェニファーの存在がクローズアップされます。これは、物語中に描かれた若い美女サラと老貴族サー・セシルのカップルを繰り返すように見えて、主人公クリストファーと養女ジェニファーのカップルの可能性がほのめかされることで、一応、ハッピーエンドになっているのです。
ちなみに、
今回面白いと感じたのは、いつも読書会で村上春樹作品を扱う場合、中年男性と若い女性のカップルのようなある種インモラルな関係性が、アンチ春樹の意見の代表例として語られるのに対して、カズオ・イシグロの場合、どういうわけか、このインモラルな関係性が結末の救いとして読まれているようなのです。
その差はどこにあるのか?
よくわからないのですが、村上春樹の場合には、年の離れたカップルやインモラルな男女関係がアンチから糾弾されるのに、イシグロの場合は救いとして読まれる、というのは、結局は作者の人格の問題なのかもしれません。
それはともかく、本作では、擬似家族が心の救いをもたらすような物語になっている点が、村上春樹の近作『騎士団長殺し』の先取りをしているようで、この両作家の間の近似性も、興味深い読みどころではないかと思います。
さて、
生駒ビル読書会、次回は(3月はお休みして)4月に予定しています。
課題は、この4月に没後10年をむかえる作家・小川国夫の小説を選びたいと思います。
小川国夫は、筆者の師匠筋にあたり、この没後10年に際して、様々に師匠の作品の再評価を試みて行こうと考えています。
次回の読書会は、その試みの一つと思い、力を入れて開催しようと予定しています。
日程等の詳細は、後日、読書会のFacebookベージ等で発表します。
ご期待ください。
※生駒ビルヂングHP
(大阪船場の近代建築の傑作で「生きた建築ミュージアム」にも選定される)
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