アニメ風景の聖地巡礼とは、失われた土地、過ぎ去った時間への郷愁 | 作家・土居豊の批評 その他の文章

アニメ風景の聖地巡礼とは、失われた土地、過ぎ去った時間への郷愁

アニメ風景の聖地巡礼とは、失われた土地、過ぎ去った時間への郷愁


末尾に引用した、東浩紀氏ツィートのアニメ背景と柄谷行人の「風景」についての話を読んで、以下、つらつらと書く。

私としては、アニメ背景と聖地巡礼への嗜好は、失われた風景への憧憬だと考える。このことについて、「涼宮ハルヒ」に描かれた風景が阪神大震災で失われた風景への追悼につながる、と考えて書いたのが、拙著『ハルキとハルヒ』だ。

 

※土居豊 著『ハルキとハルヒ 村上春樹と涼宮ハルヒを解読する』(大学教育出版)
http://www.amazon.co.jp/dp/4864291276/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1334231386&sr=1-1

 


拙著で書いたように、描かれた風景が失われた土地への哀悼である点では、村上春樹の描く阪神間の風景も同じだ。文学の風景は、必然的に多くが失われた風景であるということになる。
アニメの風景の場合はそれが絵であることで、なおさら失われた風景の再現という意味合いが強まる。おそらく、日本アニメの風景が鎮魂歌の意味を強めたのは、宮崎アニメからだろう。
なぜなら、宮崎アニメ以来、アニメ風景への聖地巡礼行為が定着したといえるからだ。
宮崎アニメの場合の失われた風景は、主に高度成長期以前の原日本だ。その後、「ハルヒ」の背景を現地探訪する行為が、アニメ聖地巡礼の増える一つのきっかけだったことは、すでに多くの論者が指摘している。その「ハルヒ」では、阪神大震災という目に見える喪失が、失われた風景の再現として描かれた。「ハルヒ」を境に、聖地巡礼は追悼の意味を露わにしたといえる。無意識に、ファンは「ハルヒ」の風景がすでにない世界であることを感じるのではあるまいか。
なぜなら、「ハルヒ」の世界は、過去の世界が3年前に一度作り変えられた、という前提だからだ。「ハルヒ」の物語をみる者が、そこに描かれた風景が失われた3年前の世界を再現したものであることを感じているなら、その風景によって過去への憧憬を喚起されるだろう。もっとも、聖地巡礼の行為には、そういうこと抜きに、単にアニメの世界に同化したいという欲求もあるのだが。
「ハルヒ」以降の日常系アニメでは、背景が現実の写真から描き起こされることで、その絵に描かれた風景は過去の現実世界の再現になっている。物語の中に喪失があろうとなかろうと、背景がすでに過ぎ去った時間のその土地を再現していることになる。そういう土地を訪れる聖地巡礼という行為は、意識してもしなくても、失われつつある場所への巡礼となってしまうのだ。
話題の映画『君の名は。』の聖地巡礼の場合も、失われた過去への巡礼である点は同じだ。特に、彗星落下で壊滅するはずの村の風景は、あらかじめ予想されたカタストロフを事前に追悼するような、奇妙な意味合いを持たされている。作中に描かれたあの村は彗星落下によって失われたはずの3年前の風景、ということになっていて、実はそれが回避された別の世界での物語である、という非常に凝った設定なのだ。だから、『君の名は。』の作中風景を訪ね歩くという聖地巡礼の行為は、作中で主人公の彼が、記憶の中の風景を頼りにあの村を探す行為と、ぴったり重なることになる。文字通りの聖地巡礼をやっていることになるのだ。

 


※土居豊の最新論考。人気アニメ「君の名は。」と村上春樹、小澤征爾を比較し、多数派と少数者の対立を考える。他、文芸ミリオンセラー作品を批評。

『ミリオンセラーの生まれ方 〜「君の名は。」はセカチューかノルウェイか?』
http://www.amazon.co.jp/dp/B01M341CIX/ref=cm_sw_r_tw_awdl_x_3KOfybTDZFJSJ

 

 

最後に、聖地巡礼については、アニメの場合と実写映画の場合ではおそらく意味合いが異なる。アニメや映画と、小説の場合ももちろん違う。
中でも特にアニメ作品の聖地巡礼が特殊なのは、描かれた絵がすでに過去の失われた風景の再現である、という点にある。描かれた絵の方が、実写映画の場合よりも、過去の時間の一点を強く固定する。それが、ファンを聖地巡礼に惹きつける所以なのだ。

 


※参考
「東浩紀@ゲンロン4予約受付中 ‏@hazuma 22:22 - 2016年11月20日のツィートを引用」

《柄谷行人は「風景の発見」こそが近代文学の内面を作り出したと説いた。それを援用してみる。風景とは映像表現では背景である。アニメでは背景美術である。背景がリアリズムを志向し他方でキャラクターだけはデフォルメして描かれる、その二重性が広く受け入れたときアニメは「自然」なものに見える。
しかしむろんその「自然」は欺瞞である。それは現実を覆い隠す欺瞞にすぎない。その点で「君の名は。」の「美しい」「リアル」な背景は欺瞞の完成である。他方で「この世界の片隅に」はどうか。この作品では背景とキャラクターは分離されない。否、背景が絵にすぎないことがむしろ幾度も強調される。
アニメーションの本質はなにか。それはすべて嘘だということである。すべて現実ではないということである。だからそれは解離の表現に向いている。「この世界の片隅に」は解離の作品である。すずは戦争から解離している。だがその解離こそが現実であり生なのだというのが本作の主題である。
(中略)
アニメには二つ方向がある。「僕たちもアニメのように美しい現実を生きている」と訴える方向と「僕たちは現実すらアニメのように解離して捉えているのかもしれない」と描く方向。「君の名は。」が前者だとすれば「片隅に」は後者である。好みはひとによって分かれよう。しかしぼくは後者を好む。
言い換えれば「君の名は。」は背景が物語に奉仕する作品。嘘の自然が視聴者の感情移入を支える作品。それはとても近代文学的。でも「片隅に」は違う。そこでは背景は背景として自立していない。すずは背景と物語を分離できない。でもそれこそがすずの生きる力になる。それは病者に力を与える作品。》

 

 

※土居豊の論考著作、「涼宮ハルヒ」や村上春樹関連

 

土居豊 『沿線文学の聖地巡礼 川端康成から涼宮ハルヒまで』(関西学院大学出版会)
http://www.kgup.jp/book/b146062.html

 


土居豊『いま、村上春樹を読むこと』(関西学院大学出版会)
http://www.kgup.jp/book/b183389.html

 

 

土居豊『村上春樹のエロス』(KKロングセラーズ) 
http://www.amazon.co.jp/dp/4845421852