ブルックナーとナチス、そして戦中日本のクラシック音楽 | 作家・土居豊の批評 その他の文章

ブルックナーとナチス、そして戦中日本のクラシック音楽

ブルックナーとナチス、そして戦中日本のクラシック音楽

 


N響アワーでパーヴォ・ヤルヴィ指揮によるブルックナーの交響曲第2番を聴いた。ブルックナーの2番といったあまり演奏されない曲を、どんどん取り上げてくれるのは、さすがパーヴォ。
改めて聴き直すと、ブルックナーの場合、後期の有名曲よりも、1番や2番の方がメロディスティックで聴きやすかったりする。
ブルックナーの1番については、敬愛するアバドのお気に入り曲だったこともあって、最近よく聴いている。ブルックナーらしからぬ?メロディラインの美しさにひきこまれるのだ。
ブルックナーの交響曲第4、5、7、8番は、若い時にとことん聴いたので曲の隅々まで覚えているが、この歳になると、前はあまり聴かなかった初期曲が、かえって新鮮で気に入っている。

ところで、
ブルックナーについて、今興味を持っているのは、ドイツ圏での受容のされ方だ。特に、ナチス時代、ヒットラーの育ったリンツゆかりの作曲家ということで、ナチス肝いりで多く演奏されたことについて。ブルックナーの聴かれ方として、戦時中のドイツ圏での存在感と、戦後、ナチスとの関係を脱したあとの、復権のされ方が知りたい。
あるいは、ヒットラーが傾倒したワーグナーほどには、ブルックナーとナチスとの関係は取りざたされていないようだが、実際はどうなのだろう? 例えば、ナチスと関係の深いワーグナーが長く演奏できなかったイスラエルで、ブルックナーを演奏しにくいということはないだろうか?

もう一つ、気になっているのは、日本のクラシック音楽の場合だ。
ナチス絡みのワーグナーやブルックナー受容とその反動の時期、そして現在に至るドイツ国民芸術としてのあり方に対して、近年、日本国内で目立つ戦前の国粋的音楽作品を復古する動きを対置してみたいのだ。日本のクラシック音楽は戦時中の軍部協力を検証しなければならない時期だと思う。

 


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特に、『日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲』を作曲したR・シュトラウスについて、日本の戦前、日独同盟期の音楽界との関係を、真剣に検証してもいいと思うのだ。

 

※R.シュトラウス:皇紀2600年奉祝音楽
https://youtu.be/OVupvEfU9Go

 


先日、NHKのアーカイブで近衛秀麿のドキュメンタリーをみて以来、特にそう思う。日本のクラシック界は、戦前のことを見事に切り離して現在の繁栄を享受しているように思えるのだ。

さらに、もう一つ。
これは自分自身、大阪在住の音楽ファンとしては気分のよくないことだが、あえて言っておきたい。大阪のクラシック界の大御所だった朝比奈隆について、戦時中の上海、満州時代のことを、そろそろ検証しなおすべき時期なのではなかろうかと思う。朝比奈のデビューが戦後、関西交響楽団を立ち上げた関西戦後復興の象徴として語られるだけでは不足だ。戦中の、特に満州国での音楽活動について、その意味を深く追究する必要がある。

音楽や舞台芸術は国威発揚にたやすく利用される。そのことを演奏側はもとより聴く側もよく知っていなければならないと思う。音楽の力で感情を揺さぶられ多くの大衆が戦争に酔った時代は、ほんの数十年前のことでしかないのだから。現代の舞台芸術、特に映像作品の持つ影響力はかつての比ではない。
だから、リオ五輪の閉会式のあの映像作品と、「アベマリオ」の演出も、喜んでみているだけでは危うい気がするのだ。
これから、東京五輪に向けてますます国威発揚の舞台や映像作品が多く登場するだろうし、きっとものすごくハイレベルな作品ばかりだろう。簡単に酔わされないぞ、と思っていてちょうどいい。

 

 

※参考音源
アバド指揮 ウィーンフィル
ブルックナー 交響曲第1番

http://www.hmv.co.jp/artist_ブルックナー-1824-1896_000000000019429/item_交響曲第1番%E3%80%80アバド&ウィーン・フィル(1996)_5753690

 

フルトヴェングラー指揮 ウィーンフィル
ブルックナー 交響曲第8番(1944年録音)
http://www.hmv.co.jp/artist_ブルックナー-1824-1896_000000000019429/item_交響曲第8番%E3%80%80フルトヴェングラー&ウィーン・フィル(1944)(平林直哉復刻)_5733729