熊本地震とダークツーリズム観光、そして司馬遼太郎『翔ぶが如く』 | 作家・土居豊の批評 その他の文章

熊本地震とダークツーリズム観光、そして司馬遼太郎『翔ぶが如く』

熊本地震とダークツーリズム観光、そして司馬遼太郎『翔ぶが如く』

今回の熊本地震に関して、いまからGWの熊本の観光キャンセルは困る、との意見がネットのタイムラインで流れている。
それはもちろん正しい。
だが、国内からの観光客はともかく、海外からの観光客は、キャンセルしたくなるのも理解できる。
そこで思うのだが、日本のように災害多発の国が、観光産業で経済発展するのはなかなか難しいだろう、ということだ。
東日本大震災と福島原発事故から5年で、またこの熊本地震が起こった。もっともまだ現在進行中の地震なので、どの程度の被害規模になるかによって、今後の観光復興も変わってくるのだが。それでも、今回の熊本がすぐに観光復興できたとしても、これから必ず起こるといわれている東海地震、首都直下地震、それに東南海地震も控えている。
そう考えると、日本のような災害多発の国が観光産業立国を目指すのは、根本的に間違いなのではないか?と思えるのだ。
これは、あるいは日本がダークツーリズム大国になれるメンタリティーなら、可能なのかもしれない。つまり、いくら大災害が起こっても、その被災地を保存することでダークツーリズムを積極的に推進するメンタリティーがあれば、ということだ。
けれど、ダークツーリズムは少なくとも福島原発事故の場合、あっさりと潰えた。おそらく、災害被災地でダークツーリズムを積極的に推進できるような神経の太さは、いまの日本人にはないのでは。
ちなみに、日本のダークツーリズムが福島で潰えたというのは、東浩紀の『福島第一原発観光地化計画』を元にした一連の企画が、ほかならぬ現地からの抵抗でつぶれたことを踏まえている。

ところで、阪神淡路大震災の場合はどうだっただろうか?
阪神淡路のあと、震災復興を旗印にして神戸市や兵庫県は観光振興をさらに推進した。その試みは、現状、うまくいったようにみえる。
だがおそらく神戸、兵庫の観光が回復したのは、ダークツーリズムとしてではない。その逆に、いち早く災害被災地を消滅させ、綺麗な町を建設したからではあるまいか。いま、人々は綺麗になった神戸を観にくるのだ。阪神淡路大震災から20年過ぎて、神戸、兵庫に来る観光客は、災害被災地の神戸を、ではなく、生まれ変わったおしゃれな神戸をみに来る人が大半ではなかろうか。
果たして、神戸、兵庫が震災の被災地をあえて隠さず、ダークツーリズム主体の観光誘致をしていたとしたら、いまのように神戸観光が回復していたかどうか?
その証拠に、いまの神戸、兵庫の主要な観光地には、震災の跡はほとんどみられない。震災以前の神戸、阪神間の風景は、いまみられる同じ場所とはとても思えないぐらい、独特のハイカラな雰囲気が残っていて、谷崎が描いた阪神間、村上春樹の描いた神戸をそのままみることができた。いまとなっては、その片鱗を感じ取ることも難しい。

話を今回の熊本地震に戻す。
報道で、次々と画面に出る地名は、司馬遼太郎『翔ぶが如く』で馴染みのある地名ばかりだ。こうしてみると、西南戦争の主要な戦地が、九州の中央部全体をカバーしていることを実感する。
震度7を記録した益城町を熊本付近の地図でみると、西南戦争の激戦地、田原坂とは、熊本城をはさんでちょうど反対側にあるのがわかる。益城は意外なほど熊本市に近い。あのときの揺れで、熊本城の石垣が崩れたのも道理だ。
熊本付近の地図を見ていると、九州新幹線は、熊本から球磨川に沿って八代から鹿児島に抜けている。西南戦争のとき、政府軍が熊本城を包囲する薩摩軍を逆に包囲するため、後背軍を八代に上陸させたのは、さもありなんだとわかる。南から熊本に接近するには、そこしかない。
このように、改めて日本地図でみていると、熊本が九州の交通の要衝であるのがよくわかる。九州の南北は、熊本を通らないと移動しにくい。あとはけわしい山ばかりなのだ。
司馬遼太郎『翔ぶが如く』で描かれた西南戦争において、薩摩軍が熊本城で政府軍に食い止められてしまったのも、地勢のせいだとわかる。
たとえ西郷軍が熊本城を置き捨てて先へ進みたくても、あそこを押さえておかないと、九州北部から本州に進出したあと、鹿児島との連絡が断たれかねない。
司馬遼太郎は『翔ぶが如く』の中で、西郷軍が熊本城にこだわったのを戦術ミスだとするが、鹿児島からの補給を考えれば、やむを得ない選択だったのだろうと思える。
ちなみに、震度7だった益城町は、司馬遼太郎『翔ぶが如く』にこう描かれている。
※引用
《山川浩とその部隊にその大隊に与えられた部署は、川尻にもっとも近かった。当然、激戦と犠牲が予想された(中略)
熊本南郊の山野は、ふるくから、「益城」といわれた。陽がのぼるころにははやくも七、八里にわたって銃声がきこえはじめ、午前九時ごろには各地の薩軍の小部隊と政府軍の大部隊とが激突し、西南戦争はじまって以来の会戦形態が現出した。
薩軍の主将永山弥一郎は、御船の町の街道ぞいの商家を本営とし、この広大な戦線を総覧した。
(司馬遼太郎『翔ぶが如く』より)》

今回の熊本地震が今後、どこまで被害規模を拡大するのか、予断を許さない。
だが、もし地震の被災地をこれから観光で復興していこうとするならば、司馬遼太郎が名作『翔ぶが如く』で描いた、西南戦争の激戦地であったということも、観光誘致の目玉として活用できたら、と思う。

最後に、これからまだ被害が拡大するかもしれない場所にいる方々のご無事を祈念し、地震で亡くなった犠牲者のご冥福を祈る。