「大阪教育改革を進めると点数至上主義になる」? | 作家・土居豊の批評 その他の文章

「大阪教育改革を進めると点数至上主義になる」?

「大阪教育改革を進めると点数至上主義になる」?

点数至上主義とは、戦後の日本が、高度経済成長を進める労働力確保のため、必然的に生まれた教育政策である。
その反省から、80年代以降の一連の教育改革があった。
けれど、新しい学力観は定着せず、ゆとり教育という悪名を残して、いまやもとの木阿弥、学力偏重の教育に戻ろうとしている。
その原因は、点数至上主義が日本人に完全に根付いてしまっていることにある。
その源流は、明治維新以来の富国強兵、追いつき追い越せの風潮にある。
いまだに、日本人は、海外に追いつき追い越せを信じて、子どもを更なる競争に投入しようとしている。

競争社会の是非を、今更論じても仕方がないかもしれない。けれど、少なくとも、自由競争を是とする橋下市長が、点数至上主義を否定するのは自己矛盾だ。
競争の勝敗は、点数でしか確定できない。
今の日本の公教育は、目に見える証拠としての点数なしには成り立たない。
だから、子育てする親たちは、我が子の将来の幸福な生活を願うとき、否応なく、良い点数をとれるように育てようとしてしまう。
なぜなら、親自身、点数社会で育ち、点数の差によって人生設計が輪切りされてきているからだ。
その最大の関門が、大学入試であり、就活である。
今の日本の社会が、昔ながらの終身雇用と単線の進路決定に基づいている限り、「ナンバーワンではなく、オンリーワン」などという夢物語は通用しない。
大学入試で浪人が許される経済的に恵まれた境遇にない場合、とにかく同じ学齢の子ども同士の中で、抜きん出て、偏差値の高い大学に受かり、そのまま、同期の中で勝ち抜いて、新卒で大企業に採用されるか、官僚にでもならないと、ナンバーワンとはなれない。
同じ学齢の中で、学力的に落伍してしまえば、もはや単線の進路決定の中で敗者復活の機会はなく、格差社会の底辺に落ちるしか道はない。今の日本社会では、オンリーワンになるということは、そのまま、ナンバーワンになるということでしかない。

以上のような日本社会において、点数至上主義に走るしか、我が子の将来の幸福を保証してやれないことを、今の子育て中の親たちは、身を持って知っている。
だから、「クラブ活動を重視する学校」などというのは、「学力が高い」ことが前提でなければ成り立たない。
クラブ活動や、個性を売り物にする学校は、それしか自慢できるものがない証拠だということを、世間の親たちはよく知っている。
ついでにいうと、おしゃれな制服のある学校の多くは、学力の低い学校だというのも、定説である。制服のおしゃれさで生徒を惹き付けようという、苦肉の策なのだ。

断っておくが、私自身も、今の学力偏重の日本社会を肯定しているのではない。
しかし、我が子の将来を実際に考えると、やはり、少しでも学力の高い学校に行ってほしい、ということを、願わざるをえない。自分自身が、偏差値の低い大学出身で、最初から競争を降りていた体験を振り返ると、身を立てるために、本来なら不必要な苦労を散々せざるをえなかったからだ。
もし、我が子が、世間一般とは違う特殊な才能を持っているとしても、その才能を活かして生活していけるようになるのは、生半可な努力では足りないということも、身をもって知っている。
だからこそ、学力だけは人並みにつけておいてやらなくては、これからの衰退していく日本において、格差社会を生き抜くことは容易ではない。
このような、子育て中の親の切実な思いを、橋下市長も、大阪維新の会も、果して本当に理解しているだろうか?
正しくは、「大阪教育改革を進めると点数至上主義になる」のではなく、「大阪教育改革を進めると、元々あった点数至上主義がますます加速して、社会の格差がますます広がる」のである。
もっとも、子育て中の親の一人として、願わくば、競争社会で生き馬の目を抜く生活を強いられるのではなく、経済大国にふさわしい、悠々とした穏やかな人生を、子どもたちに与えてやれるような、そんな国づくりを目指したいものだ。
教育の問題は、それこそ点数で結果がわかるほど、簡単なものではない。けれど、少なくとも、歴史と伝統を軽んじる教育には、普遍性は少ないといえよう。


※参考
4月21日の橋下市長のツィッター ‏
@t_ishin

朝日新聞大阪教育改革の記事への反論。大阪教育改革を進めると点数至上主義になるとする。大阪教育改革への反対の有識者は、皆口を揃えて言う。点数至上主義派教育ではないと。とんでもない勘違いだ。大阪維新の会は点数至上主義ではない。点数も教育の一要素であることは間違いない。

大阪教育改革で教育行政の仕組みを変えてきた。この仕組みの根本哲学は、「保護者・国民を信じること」である。大阪教育改革では保護者・生徒が学校とともに学校の目標・計画を作り、そして教員・学校の評価にも参加する。点数を重視するのか、何を重視するのかは、それは保護者の求め次第だ。

点数を重視する学校があっても良いし、クラブ活動を重視する学校があっても良い。その他生徒の個性を尊重する学校があっても良い。それは保護者と学校がきちんと考えて、しっかり学校を運営してねというのが大阪教育改革の肝だ。これまでの教育は専門家に委ねる発想だ。

保護者の決定に重きを置くと教育がとんでもない方向になる。教育の専門家がしっかりと教育を考えてやる、というのがこれまでの教育行政の根本哲学。まあ国民全体の教育レベルが低かった時代は、それで良かったのであろう。ところが今の日本国の国民のレベルは相当高い。

複雑多様化した現代日本社会のおいては専門家の専門領域における判断だけでなく、全般的な総合判断が大切である。そしてこの総合判断は国民の判断が最も信用できる。かつては超専門家の領域とされていた司法の世界でも裁判員制度が導入され、劇的に刑事裁判が変わった。

この効果は計り知れない。司法の世界に大量の専門家以外の国民が入り、普通の価値観が司法の世界に浸透してきた。その効果なのか、今の最高裁の活躍は目を見張るものがある(もちろん当事者にとっては腹立たしいと思う判断もあるだろうが)。やはり国民の感覚と言うのは絶対的ではないが信頼に値する。

かつては教育権が国、保護者、教員のいずれにあるかという不毛な論争もあったようだが、今や保護者も学校運営に携わってもらう、保護者の価値を大切にするという流れに間違いはないだろう。一部やっかいな保護者(僕???)がいても、それでも保護者の価値を無視して専門家だけで決定する時代ではない

そこで教育行政の領域に保護者の価値・選択を入れ込む仕組みにしたのが大阪教育改革だ。今回の教育行政システムで点数至上主義になるかどうかはある意味保護者次第だ。そういうことを求めるならある意味仕方がない。何をもって目標とするのか学校サイドと保護者がしっかりと認識を共有する。

点数至上主義にならないことも多いだろう。全ては学校と保護者の協議次第だ。そして決まった目標に沿って学校を運営し、教員も学校もその目標に照らしてしっかりと評価される。これまでのように全て教育行政のお任せ、先生のお任せというわけにはいかない。これが大阪教育改革の核の部分だ。

大阪教育改革を進めれば点数至上主義に陥ると言うのは、改革の中身の理解が足りない。どこにも点数至上主義を目指すなど書いていない。何を目指すかは学校と保護者が協議して目標を決める。アメリカの落ちこぼれ0法と同視して、大阪教育改革は失敗すると吹聴するMBS/VOICEこそ落ちこぼれだ