オーケストラの日 | 作家・土居豊の批評 その他の文章

オーケストラの日

オーケストラの日

今日はオーケストラの日、なのだが、どのくらいの人が知っているだろうか?
本当は、近所の公共ホールで行われるオーケストラコンサートに子どもを連れて行きたかったのだが、残念ながら、整理券がたちまちなくなって入手できなかったので、自宅でCDをかけて楽しんでいる。
前回のブログで、大阪のザ・シンフォニーホールが売却されるニュースについて、いささか感情的なことを書いた。


【朝日放送、「ザ・シンフォニーホール」を売却】のニュースにブログを書きました→
http://ameblo.jp/takashihara/entry-11208197361.html


その続きを書く。
多くの人は、劇場やコンサートホールというのは新しい方がすぐれている、と思っているかもしれない。
けれど、そうではない。
もちろん、劇場の技術は日進月歩で、最新の設備が導入されている方が、見応えがあったり、PAによる音響効果も聞き応えがあろう。
けれど、こと、クラシックや、古典芸能に関しては、そうとばかりはいえない。
たとえば、欧米の名だたるコンサートホールで、音響的にも、雰囲気的にも、世界の5本の指に入るホールを並べてみよう。
ウィーンのムジークフェライン。アムステルダムのコンセルトゲボウ。ボストンのシンフォニーホール。ベルリンのフィルハーモニー。あと一つは、どこが入るだろうか。
これらは、いずれも、長い年月、大切に守られてきた歴史と伝統を誇るホールばかりだ。
コンサートホールの音というのは、一朝一夕にできるものではなく、そのホールを舞台に演奏を繰り広げてきた古今の名オーケストラの音響と相まって、磨かれてくるものだ。
だから、今でこそ名ホールの仲間入りをしたベルリンのフィルハーモニーも、カラヤン・サーカスとあだ名された建設当初は、音響的にいろいろ問題があって、改装を重ねてようやく、世界に比肩するホールとなったのだ。
ウィーンフィルの世界一の音は、ムジークフェラインのあの響きと不可分だし、ボストンのシンフォニーホールも、古くて椅子が固くて、なにかと不便だということだが、その響きを市民は大事に守ってきているという。
片や、日本の名ホールの数々はどうだろうか?
今回のシンフォニーホールも、今後どうなっていくかわからないが、大阪でいうと、大阪フェスティバルホールの建て替えは、どう考えても、失敗だろう。
なぜなら、かつてのあのホールは、日本で、戦後初めて国際音楽フェスティバルが開催された、記念すべきホールなのだ。
いまとなっては、昭和の夢と消えていきそうだが、かつて、大阪国際フェスティバルは、戦後の日本の音楽文化を代表する、最高の演奏家達、歌手達が結集し、欧米の名だたる演奏家、オーケストラ、オペラを招聘して行われたのだ。
戦後初めて、欧米の本格的なオーケストラを呼んだのもここだったし、バイロイトの公演を呼んだのもここだった。
かつてのフェスティバルホールは、いまとなってはとうてい造れないような、ゴージャスなロビー空間や、シックなホール内装で、響きも、さすがにシンフォニーホールのようなわけにはいかないが、大編成のオーケストラを聴くにはもってこいの音響空間だった。
今、建替え中の新ホールは、おそらく、昨今よくあるデッドで冷たい音響の、汎用ホールになってしまうだろう。
そういう観点では、今、大阪にあるホールのほとんどは、音響的には無個性な、汎用ホールばかりだ。NHK大阪ホールしかり、大阪国際会議場ホールしかり、もとは梅田コマだった梅田芸術ホールにいたっては、あそこでオーケストラなど決して聴きたくない。おそらく、元の大阪厚生年金会館も、オリックス劇場となって、複合ホールの典型的なものとなるだろう。
余談だが、オリックス劇場のこけら落とし公演が、なんと新日本フィルだというのは、大阪人として恥である。在阪オケが4つも、立派に活躍しているのに、なにが悲しくてわざわざ東京の新日本フィルを大枚払って?呼ぶのだろうか?

さて、コンサートホールばかりではない。
劇場というのは、とくに古典芸能をかける場合、いくら設備的に古くても、歴史と伝統のある劇場で観るのは、それだけで普通の観劇体験とは違う、特別な一夜なのだ。
だから、大阪で歌舞伎を観るとき、いまは松竹座しかないのだが、かつて、中座でずっと歌舞伎をみたことのある自分には、あの松竹座は、どうもいまいち、風格に欠ける。
また、今度、新歌舞伎座が新しく建て替えになったのだが、これも、あの古い豪勢な新歌舞伎座が懐かしくてならない。
これは、東京でも同じ事で、歌舞伎座を建て替えているが、元の歌舞伎座は、本当に素晴らしい空間だった。
そういう意味では、京都の南座は、貴重な劇場だ。あそこだけは、守ってほしいものだ。
ちなみに、ミュージカルでも、おそらくは同じことがいえると思う。
劇団四季のミュージカルや、東宝ミュージカルで、これまで古今の名作ミュージカルを数えきれないほど観てきたが、すぐに思いだせるのは、ロンドンのハーマジェスティーズで観たオペラ座の怪人と、昔のMBS劇場で観た同じくオペラ座の怪人、そして宝塚大劇場での宝塚歌劇公演の数々だ。
同じ演目なのに、東京・赤坂や京都などの仮設劇場でみたオペラ座の怪人は、なぜか印象が薄い。それに比べて、ロンドンの古い劇場でのオペラ座は、狭い座席のことや、いかにも歴史を感じるホワイエの内装など、全てが印象的だった。
劇場体験というのは、演目や舞台効果だけを味わうにのではない。
その劇場、ホールに行くまでの道や、建物の外観、ホールの中の空気感、そして上演内容と、終了後の観客の雰囲気など、それら全てが相まって、一つの非日常体験となるのだ。
昨今の新しいホールや劇場の多くが、複合ビルの中におさまってしまっているのは、そういう観点からも間違いで、巨大なビルの中の一施設であるホール、劇場は、あくまでテナントの一つ、という印象がどうしてもつきまとう。入り口一つとってみても、道を歩いてホールのエントランスをくぐるのと違って、ビルの入り口から、雑多なテナントやオフィスの中を抜けて、ホールに辿り着くのでは、全然違う。
そういう総合的な劇場体験は、建物を取り壊してしまい、運営団体が変わり、公演のやり方ががらりと変化してしまえば、たとえ名前は同じホールでも、もはや取り返しがきかない。
劇場体験というものは、箱だけではなく、経営や運営、スタッフの一人一人にいたるまで、伝統に支えられて生み出されるものだと思う。大阪のシンフォニーホールは、駅からのアプローチから、エントランス、ホワイエ、客席係にいたるまで、隅々まで、磨き抜かれたホールだった。今後、経営がかわり、全ては変わっていくだろう。
今となっては、かつての劇場体験を懐かしむしかないのだが、あの上質のコンサート空間を、どうか少しでも長く保っていってほしいと思う。


写真は、大阪フェステバルホール建替え前の記念コンサート。ホールと、ホワイエ風景。

作家・文芸レクチャラー土居豊ブログ「震災後の文学・芸術」
作家・文芸レクチャラー土居豊ブログ「震災後の文学・芸術」