いまごろ、放射能による海洋汚染を公表ですか | 作家・土居豊の批評 その他の文章

いまごろ、放射能による海洋汚染を公表ですか

いまごろ、放射能による海洋汚染を公表ですか

【プランクトンから高濃度セシウム(NHKニュース10月15日 4時54分)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111015/t10013279031000.html
ことし7月に福島県いわき市の沿岸で採取したプランクトンから、放射性セシウムが高い濃度で検出され、調査を行った東京海洋大学の研究グループは、食物連鎖によって、今後、スズキなど大型の魚で影響が本格化するおそれがあると指摘しています。
東京海洋大学の研究グループは、東京電力福島第一原子力発電所から流れ出た放射性物質の影響を調べるため、ことし7月、いわき市の沿岸から沖合およそ60キロまでを調査船で航海し、プランクトンなどを採取しました。このうち、沿岸3キロ付近で採取した動物性プランクトンを分析した結果、放射性セシウムが1キログラム当たり669ベクレルの高い濃度で検出されました。半減期が2年のセシウム134が含まれることから、原発から流れ出た放射性物質がプランクトンに蓄積したものとみられています。動物性プランクトンは、さまざまな魚の餌になることから、研究グループでは、食物連鎖によって放射性物質の蓄積が進み、今後、スズキなど大型の魚で影響が本格化するおそれがあると指摘しています。研究グループのリーダーを務める石丸隆教授は「この海域では南向きの海流の影響で、原発から高い濃度の汚染水が継続して流れ込んだためにプランクトンの濃度が高くなったとみられる。魚への影響がいつごろまで続くのかさらに詳しく調べる必要がある」と話しています。】

今朝のNHKニュースで、ひっそりと報道されたこのニュース、実はすでに5月の時点で環境保護団体グリーンピースの海洋汚染調査で報告されていたことの追認でしかありません。
(以下の記事参照)
当初、日本政府はグリーンピースの調査を拒否していたため、グリーンピースも限定的にしか汚染の具合を調べられなかったとか。


【魚貝類、海草に基準値超す放射性物質 グリーンピース
(2011年05月26日 20:59 発信地:東京 AFP)
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/environment/2802673/7266495
国際環境保護団体グリーンピース(Greenpeace)は26日、5月に福島第1原子力発電所海域を中心に実施した海洋の放射能汚染調査で、沖合約22キロより外において、国の暫定規制値を超える放射性物質を検出したと発表した。
 グリーンピースでは調査船で採取したサンプルの分析を独自にベルギーとフランスの研究機関へ依頼したところ、魚貝類や海草など幅広いサンプルから、ヨウ素131やセシウム137など、暫定規制値を超える放射性物質が検出された。(以下略)
(c)AFP/Yuka Ito】

それにしても、福島原発の放射能汚染水を海洋投棄した際のいきさつも、最近、あきらかにされていますが、政府のどたばたぶりは目に余るものがあります。
高濃度の汚染水を海に流せば、海産物が汚染されるというのは、子どもでもわかる話です。
その後、どうなったかを調査もさせないで隠す姿勢は、国際的にも非難をあびるのは必至だと思います。
それ以上に、国民の健康を犠牲にして、政府の安泰を図るというのは、どういうことなのでしょうか。
というのも、海洋汚染を今頃になって発表しながら、一方では、東北沿岸の海産物をどんどん消費者に食べさせようとしているからです。
これは、政府が、水産業者と消費者の両方にいい顔をしようと、ちぐはぐな対応をしているから、こうなるのだと思います。
一方で、安全だからどんどん食べろといい、こっそり危険かも?といういいわけを発表しておく。なんとも姑息な態度だと感じます。
すでに5月時点で、グリーンピースの海洋調査のことを知っていた人は、政府がいくら海産物は汚染されていないといっても、そのままうのみにすることはできなかったでしょう。
なぜなら、政府がグリーンピースの調査を拒否するなら、政府自身でちゃんと汚染の調査をして、公表しなければならないはずなのに、それもしていなかったからです。
農産物にしても、海産物にしても、原発事故による放射能汚染の実態を国が責任をもって調査、公表し、その上で国民の、特に子どもの健康を最優先に対応をしてほしいものです。
妙な隠し方をしたり、「暫定」基準値などのまるで諦めの境地のような対策を続けるから、ますます政府を信用できなくなるのです。
政権は数年続けばあとはどうなろうと知ったこっちゃないのかもしれませんが、我々はずっと生きていかなければならないし、子どもに対して、大人の責任というものがあるのです。