映画『ノルウェイの森』鑑賞法〜試写をみての印象 | 作家・土居豊の批評 その他の文章

映画『ノルウェイの森』鑑賞法〜試写をみての印象

映画『ノルウェイの森』鑑賞法~試写をみての印象

映画『ノルウェイの森』の試写会を観た。
この映画は、村上春樹原作の映画化、と思ってみてはいけない。
世界的な人気作家Haruki Murakami原作の映画化なのだ。
近年、海外、特にアジアで厖大な数の読者に支持されている村上春樹。アジアでの村上文学の読まれ方が、はからずもこの映画に現れたのだといえる。翻訳小説なのだから当然だが、そのイメージは、日本の読者が一般に抱いているハルキワールド観、『ノルウェイの森』観とは大きくずれているようだ。
なにしろトラン・アン・ユン監督は、初めて『ノルウェイの森』を読んで感銘を受け、映画化を思い立ったが、イメージを壊したくないので他の村上作品を読まなかった、ということである。
だから、この映画の原イメージは、あくまで、ベトナム系フランス人映画監督が読んだHaruki Murakamiの一編の小説、なのだ。
以上を踏まえて私が考えたこの映画の鑑賞ポイントは、主演女優のRinko Kikuchiである。映画『ノルウェイの森』は、女優・菊地凛子を観る映画、だといえる。
トラン監督に自らプロモーションビデオを送って、主役の直子役を熱烈にPRしたという菊地凛子は、トラン監督の求めるヒロイン像に見事合致したのだ。
それは、カンヌですでに国際的な評価を得た一人のアジア系演技派女優、である彼女こそが、トラン監督の求める直子のイメージだった、ということだ。
共演の松山ケンイチや、もう一人のヒロイン役の新人・水原希子は、あくまでこの映画の登場人物としてのワタナベであり、緑である。村上春樹の小説『ノルウェイの森』そのままのイメージではない。
映画『ノルウェイの森』は、ハリウッドでも活躍するアジア系の耽美派映画監督が、過去の日本を舞台に選んで、エロス(愛)とタナトス(死)をテーマに撮った映画、であるといえよう。
この映画を観るとすぐに目につく特徴として、執拗な雨のシーン、植物へのクローズアップによる官能的な描写、煙草の煙のスモーク効果や、群衆(デモ隊)の多用、音楽へのこだわり、などがある。これらは全て、これまでのトラン監督作品のモチーフそのままである。
意図的に対比される自然の美と人間の醜さ、植物の生命力と人間の死。ひたすら雨の降る窓辺と、植物の映像美が、デモで混乱した大学構内や街角のアジア的猥雑さと交錯する映像は、スタイリッシュというよりも混沌としたイメージである。
また、映画そのものが絵的な美と音楽に大きく依存しており、ドラマ性は度外視されて、ストーリーテリングははじめから崩壊している。
キムタクとビョンホンの2大看板で話題となった前作の『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』では、目を背けたくなるグロテスクな映像表現を追求したが、今回は残虐描写は影をひそめ、わずかに魚市場の場面での一瞬の血しぶきや、直子の自殺した足の描写などで発揮されるだけだ。
むしろ、出世作の『青いパパイヤの実』に戻ったようなイノセンスとエロスの交錯、しのびよる死の影、といったイメージを多用する。
あくまでも映像美と音楽を全面に押し出した映画作りを背景として、テーマであるエロスとタナトスを一身に体現したのが、Rinko kikuchiの直子なのだ。
この「直子」は、原作にある女性の負の面、ダークサイドを全て一身に担っている。映画の「直子」の中には、原作小説の「レイコ」の狂気も、レズの美少女の情念も、誰とでも寝るような少女たちの快楽も、はつみの執念も、緑が秘めた暗い怨念も、そして直子の姉の暗い血の呪いも、全てが詰まっている。
だからこそ、カンヌ女優Rinko Kikuchiの、あざといまでに過剰な演技を、トラン監督は求めたのだ。これはよくもわるくもトランの映画であり、Rinkoの映画だといえよう。
そういう意味で、この映画『ノルウェイの森』は、実に強烈な印象の映像作品であり、近年珍しい、主演女優こそが全て、の映画なのだ。映画ファン必見、の問題作である。

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