「朝鮮文化を女性で描写したはがき…日帝の支配的な視線を現すもの」(記事)

(朝鮮日報:2月28日付け)

 

 「空を飛ぶゼロ戦と南漢山城の守御将台を一緒に描写するとか、日章旗を持った人々が朝鮮から出征する兵士たちを歓送するとか…。消息を伝えるはがきは親密性の強い私的な媒体ですが、そこで戦争を広報するというのが矛盾的、逆説的に感じられました」

 仁荷大国語教育科の崔賢植(チェ・ヒョンシク)教授は、日帝強占期の写真はがきに注目するようになった背景についてこのように説明した。崔教授は最近、『日帝時代の写真はがき、植民地朝鮮を歌う』(成均館大学出版部)を出版した。日帝時代に植民地観光が活性化するのに伴い、慶州・金剛山といった名勝地や朝鮮の文物を写真や絵画で紹介するはがきが登場した。それが単なる旅行記念品ではなく、異国情緒という外皮の内側に軍国主義イデオロギーを秘めた宣伝メディアだったことを示す著作だ。

 

 崔教授は「これまで収集したはがきは800枚くらいになる」と語った。そのうちおよそ100枚を著書に収録した。「朝鮮的なもの」のイメージに歌詞を添えて紹介する形式が多い。例えば「朝鮮民謡」はがきには石窟庵本尊仏、リンゴを収穫する朝鮮女性の写真と共に、いとしい人を待つ女性の心を歌った歌詞が登場する。「日帝は、崩壊していた石窟庵を再建して観光地とし、本尊仏の美を女性の体になぞらえました。こういう事情を考慮すると、はがきは受動的・女性的存在である朝鮮と、それを見つめる支配的・男性的な日本の視線をあらわにしていると言えます。民謡となっていますが、歌詞も、詩人・金素雲(キム・ソウン)が当時出版した民謡集には出ておらず、日本人が創作した可能性があります」 

 戦車が通過する南大門(崇礼門)の風景に、あめ売りの朝鮮の少年の姿を重ねたはがきのように、発達した近代と落後した朝鮮を対比する戦略も見られる。崔教授は「内鮮一体を主張して植民地として占有すると同時に、朝鮮を異質な存在として排斥してきた日帝の矛盾する視線が現れている」と語った。  

 

 そんな戦略が常に成功していたわけではない。崔教授は「はがきに最も頻繁に登場するアリランは、1930年代に禁止曲に指定されたが、日本に伝わってレコードとして販売された」とし「朝鮮の声で歌うアリランは、日本によって翻訳されたり脚色されたりしない、朝鮮固有のものを現した」と語った。

  崔教授は、大学院の授業でもはがきを活用するという。100年前のはがきを再び見ることにはどのような意味があるのか。崔教授は「多文化時代を生きていく私たちが、当時の日本人の朝鮮人に対して持っていた差別的視線でもって、外国から来た人々を眺めているのではないか-と振り返らせてくれる」と語った。

 チェ・ミンギ記者

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<私の意見>

 韓国内にも、いろんな視点で日韓併合期の朝鮮半島あるいは朝鮮半島出身者の研究がされることは良いことだと思います。

 但し、それには但し書きが必要となります。

 

 絵葉書という媒体から当時の状況を探ることはとても大事なことです。

 はがきは当時のコミュニケーション媒体として最も重要なものだと考えて良いものだと思います。

 

 ここで崔教授なのか記者であるチェ・ミンギかわかりませんが、「戦争を広報するというのが矛盾的、逆説的に感じられました」という言葉を冒頭に記載しています。

 崔教授はどのような葉書を収集していたのでしょうか。

 僕は収集の意味をどこに置いているのかをこの記事で読んだ中ではわかりません。

 

 図柄のことを言っていますが、仮に図柄のことを考察するなら、いつの時期に作成されたはがきかで異なることを理解すべきです。

 1910年当時と1940年代では政情、文化が異なります。

 さらに実際に使用され文字が記載されたはがきか、未使用なはがきかでも異なります。

 

1910年当時のはがき

 日韓併合時のもので朝鮮出身者はほとんどが文盲で字が書けず、対象は日本人に限定されるもの

 本土の日本にとっては異国情緒のあるものが図柄として掲載されると思います

1940年代のはがき

 朝鮮出身者でも一定数の識字率は向上してると思います

 但し、戦時下であり、軍を礼賛する図柄になることは、朝鮮半島がらみではなく、日本国全体に及んでいます

 

 崔教授の考察は、「日朝(韓)関係」のみの考察で、当時の日本の状況を考慮しているかどうかが重要だと思います。

 先にも記載しましたが、1910年代、20年代、30年代、40年代の構図は変化しているでしょう。

 彼がやるべきことは、朝鮮半島の構図だけでなく、日本国内の図柄、あるいは台湾の図柄、南方地域さらには欧米が植民地政策を行った国の関連したものも入手して比較すべきだと思います。その中で朝鮮半島がどのように扱われているのかを見るべきでしょうね。

 1930年代以降、日本は「八紘一宇」という掛け声をもとに拡大主義を続けています。

 

 その中で注目すべきことがあります。

 当時の図柄の構図に「空を飛ぶゼロ戦と南漢山城の守御将台を一緒に描写するとか、日章旗を持った人々が朝鮮から出征する兵士たちを歓送する」とありますが、本土日本国民と朝鮮半島の半島出身日本国民の融合を図柄化していることです。

 

 植民地と表現していることが、この図柄から正しい表現ではないということです。「日本としての一体化」を掲げているものであり、それはまさに「同国民としての併合」を象徴していることを意図していることです。

 併合当時、朝鮮半島出身者に対する差別があったことは否定しませんが、その差別は朝鮮出身者の「非文明性」からくるものであり、ただの奴隷として意図するなら、そのような構図にはなりません。

 欧米諸国がアフリカの諸国を隷属化した中でそのような構図のものを製作したかどうかも調べるべきだと思います。

 

 崔教授の著書を読んだわけではないのでどのような、記載内容全体がどのように考察がされているかわかりませんが、「植民地」という定義で日本が朝鮮半島を支配したか否かは他国が実施した状況を比較対象にして客観的に考察をかけるべきだと思います。