ちまたで言われることが、、「何故カラヤンはこの曲を録音しなかったんだろう」という議論です。

 

 その例がモーツァルトの前中期シンフォニー、ハイドン、ドビュッシー、マーラー、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ラフマニノフ、Rシュトラウスのオペラなどがあります。また『カルミナブラーナ』みたいに何度も演奏しても録音していない作品も存在します。

 

 彼の激動の歴史において、そこまでレパートリーを広げることができなかったようです。仮にカラヤンが楽譜を見ながら指揮することを『よし』としていれば、上記の音楽の非常に多くを演奏あるいは録音していたかもしれません。

 

 たとえばショスタコーヴィチ。この曲でカラヤンが録音したの「交響曲第10番」だけです。これについてはソ連の人道主義者にして名ヴァイオリニスト・ダビッド・オイストラフが「是非、録音してください」とカラヤンに懇願したものです。スターリンの死去とともに作曲を始め、ショスタコーヴィチが渾身の力を込めて作曲したものです。

 

■関連記事■
僕のアイドル『ヘルベルト』~その3「ショスタコーヴィッチの暗号『第10番』」
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 カラヤンは言っています。「もし自分が作曲したなら、ショスタコーヴィチのような音楽を作曲しただろうな」と。もちろんこれはどの時期のショスタコーヴィチかはわかりません。
 カラヤンができなかった残念な事は「ユダヤ人の大事な場所、エルサレムのテルアビブで演奏できなかった」ことです。彼のナチ疑惑を本国イスラエルは決して認めませんでした。

 

 カラヤンはこの事柄こそ達成したかったことです。


 

【カラヤン年表】~戦後から
1946年 3月カラヤンのコンサート中止。ザルツブルグ音楽祭も連合国側に中止においやられる。
EMIと契約。オーケストラはウィーンフィルで録音。同年チェリビダッケがベルリンフィルでショスタコーヴィチ交響曲第7番を振る
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1948年 カラヤン念願のザルツブルグ音楽祭登場。ショスタコーヴィチ『森の歌』でソ連体制を賛美し命拾いする。ソ連はベルリン封鎖。
1949年カラヤン、フルトヴェングラーの圧力によりこの年でザルツブルグ音楽祭を去る。

1950年 『フィガロの結婚』を録音。ザルツブルグ音楽祭でフルトヴェングラーは『魔笛』を演奏。同じキャストでカラヤンが録音。カラヤン、フルトヴェングラーにウィーンフィルから追放食らう。
1951年 ショルティがザルツブルグ音楽祭デビュー。カラヤンバイロイト復活と同時に。登場。
1952年 バイロイト2年目の登場でヴィーラントと喧嘩。バイロイトを永久に去る。
フルトヴェングラー1933年以来のベルリンフィルの音楽監督復帰。同時に終身指揮者。
1953年 スターリン、プロコフィエフが同じ日に死去。死去と同時にショスタコーヴィチが交響曲第10番の作曲をはじめる。
9月8日カラヤンが1938年以来、ベルリンフィルを振る。通算は7回目。『英雄』と『管弦楽のための協奏曲』
ミラノスカラ座でバーンスタインとカラヤンが接する。スカラ座の音楽監督はジュリーニが就任。
1954年 55年オーストリアの復権とともにウィーン国立歌劇場の再建も決定。ベームが音楽監督就任。9月19、20日にフルトヴェングラー最後のベルリンフィル演奏。その後はウィーンフィルと『ワルキューレ』を録音。トスカニーニもニューヨークで引退。
カラヤン来日。N響を振る。9月23日にベルリンフィルを振る。フルトヴェングラーから3日後。
11月30日「王は死んだ。新王万歳」という電報がカラヤンに舞い込む。
 
1955年 フルトヴェングラーの追悼演奏会はサバリッシュが振る。10回しか指揮をしていないカラヤンがベルリンフィルの終身音楽監督に就任。ベルリンフィルでニューヨーク訪問。
1956年 ザルツブルグ音楽祭の芸術監督、ウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任。
1957年 カラヤン=ベルリンフィルが初来日。バーンスタインニューヨークフィルの音楽監督就任。
1958年 ウィーンフィルと専属契約の英デッカ、ベルリンフィルと専属契約のドイツグラモフォンがともにカラヤンに近づく。カラヤン、ニューヨークフィルに客演するもテレビ放映でバーンスタインと決裂。
ウィーンフィル、ショルティと『指環』企画。
1959年 カラヤン、デッカ、グラモフォン両社と契約。EMIはそのまま。レッグはフィルハーモニアoの首席客演指揮者にクレンペラーを据える。これでフィルハーモニアoはレッグとともに没落していく。3月にショスタコーヴィチの「交響曲第10番」を振る。ベルリンフィルとともに来日。

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1960年 カラヤンはEMIを去る。フィルハーモニアoからも去り、ベルリン、ウィーンで再録音を進める。レッグ社内で孤立。カラヤン初のマーラーは交響曲『大地の歌』。
ザルツブルグ祝祭大劇場こけら落とし。カラヤンによる『ばらの騎士』。音楽総監督は辞任。
1961年 ベルリンに壁。
1962年 カラヤンウィーン国立歌劇場の芸術監督辞任。ベルリンフィルでソ連に初訪問。
1963年 10月フィルハーモニーザール完成。カラヤンサーカス。まだ反射板の問題があり、録音は「聖イエズス教会」で行う。
1964年 ウィーン国立歌劇場を完全に辞任。それに合わせウィーンと専属契約を締結していた英デッカからも去り、グラモフォンの専属契約1本になる。
1965年 オペラの場をウィーンからミラノに拠点を移す。デッカ録音は契約分全てが終了。
1966年 ベルリンフィルと7年ぶりに来日。
1967年 『ザルツブルグ復活祭』ザルツブルグで開幕。ワーグナー『指環』プロジェクト。メトロポリタン歌劇場に登場するも失敗。
1969年 ミュンシュの死後、パリoの芸術監督就任。DGとの専属契約が切れ、EMIとも契約。オイストラフ、リヒテル、ロストロポーヴィチと競演。ベートーヴェンの三重協奏曲。
ショルティがシカゴsoの音楽監督就任。バーンスタインニューヨークフィルを退任。
1970年 EMIに続きデッカとも契約。3社体制とする。ベートーヴェン生誕200年祭にウィーン国立歌劇場でバーンスタインが指揮する。
1971年 パリoを去る、ベルリンフィルに専念。
1972年 アバドスカラ座の音楽監督。バーンスタイン同劇場で『カルメン』を振りデビュー。
1973年 ザルツブルグの5月に音楽祭。聖霊降臨祭。ベルリンフィルが演奏する。
1975年 バーンスタインが久しぶりにザルツブルグ音楽祭登場。
1976年 バーンスタインがDGと専属契約。
1977年 ウィーン国立歌劇場と和解。5月の復活祭はカラヤンフェスティバルと呼ばれる。『トロヴァトーレ』『ボエーム』『フィガロの結婚』演奏。
1978年 カラヤン=ベルリンフィルのイスラエル訪問をイスラエル国民が拒否。

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1979年 バーンスタインがベルリンフィルに初登場。レッグ死去。シュワルツコップから知らせを受け、号泣する。オペラによる最初のデジタル録音は『パルジファル』。屈指の名演。『ショスタコーヴィチの証言』出版。
1981年 CD規格がカラヤンの一言で決定。12cm。ベーム死去。
1982年 ザビーネマイヤー問題発覚。映像会社テレモンディアル社設立。
1983年 ベルリンフィルがマイヤー不採用を決定。
1984年 マイヤーはベルリンフィル入団辞退。カラヤンは激怒し、『聖霊降臨祭』にウィーンフィルと登場。
1985年 カラヤン、バチカンで演奏。ザルツブルグ音楽祭でバルツァを永久追放。
1986年 ベルリンフィル来日公演。キャンセル。代役は小澤征爾。
1988年 カラヤン最後の来日。9月25日~10月2日のベルリンフィル演奏がベルリンで最後になる。ザルツブルグ音楽祭理事を辞任。
1989年 1月に最後のオペラ『仮面舞踏会』を録音。「ザルツブルグ復活祭」では『トスカ』を振る。コンサートはなんとショルティに振らせる。4月23日ブルックナーの『交響曲第7番』をウィーンフィルと演奏し、ライヴ録音する。4月24日ベルリンフィルの終身指揮者を破棄。
7月16日死去。

 

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【『~番外編2~』にかかる解答について】 最後に『~番外編2~』の解答。さえさんが正解です。よくカラヤンを見ていました。きちっと正解をいただきました。カラヤンがオーケストラ心理をずっと大事にしていたことは、彼の時代毎の発言からもわかります。 おって『カラヤンカード』をお贈りします!! ご隠居。惜しいですが、今回は正解とするわけにはいきません。解答はすぱっと一発解答のみですので。努力賞には相当しますけどね・・・・


 

【最後に】
「ファン登録」頂いている皆様へ
「カラヤン30番勝負」において、あることをしていただけたら、たかしから精一杯のプレゼントをしたいと思います。期限が5月15日です。あることとは、たかしが最も喜ぶことです!!