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 1945年4月29日。ある人が結婚をしました。そう、あのアドルフ・ヒトラーです。翌30日彼は妻となったエヴァとともに自殺を図ります。第3帝国が崩壊する瞬間です。その後、あっという間にドイツは降伏し第二次大戦は収束に向かいます。まあ、この表現は教科書的ですが。

 

 しかし、ここから、戦争に入る人間もいました。もちろんそれはヘルベルトのことです。あえて、今回はヘルベルトとして書いていきます。彼はベルリン州立劇場での『ニュルンベルクのマイスタージンガー』上演で出演歌手が歌詞を飛ばしたことから、アドルフのひんしゅくを買い、その活動は傍流に追いやられることになりました。

 

 戦後の彼はナチ党に2回も入党問題(1932年と1935年)、さらにはドイツが占領したパリでの演奏会(1941年:この時も『マイスタージンガー』前奏曲を演奏。同曲はアドルフの大のお気に入りでトレード音楽になっていました)で指揮をしたことから、戦犯疑惑が起こり2年間公式の演奏活動を奪われました。だだ、その間レコード録音については継続していました。

 

 もちろんヴィルヘルム、クラウスなど、ドイツに残留した指揮者は全て嫌疑がかけられ、演奏停止を余儀なくされました。なお、正確に言うと、ウィルヘルムについては1945年1月に亡命しています。ナチから命を奪われそうになったためスイスに落ち延びます。

 

 今まで、ヘルベルトに対してヴィルヘルムをずっと『敵役』として展開してきました。別にそんなことする必要はないのですが、ヘルベルトを語るときに『帝王を苦しめ続けた男』として取り上げざるを得ません。それと、音楽界にはあまりに彼の崇拝者や信奉者がいたため、彼の本質を正確に語られることがなかったからです。彼の「音楽論」

 

 数奇な運命をたどったのはヘルベルトも同じです。仮にアドルフという人間が存在しなかったら彼らの人生、彼らの芸術家としてたどった道はどうだったでしょう。
 ヘルベルトは当初からヴィルヘルムに対し、敬愛の面を有し、否定的な気持ちを持っていたわけではないです。彼のリハーサルに立ち会うとともに何度も演奏会に足を運んでいます。

 

 しかし、彼らの芸術活動に強固な道筋と統制をしたのはアドルフとその取り巻きです。特にアドルフの気持ちを汲みながら動いたゲッベルス(一番上:写真右)とゲーリングは、国家だけでなく、自分たちの地位も形成しようとはかない芸術家を利用していきました。その経過は1933年ナチスが政権を取ると決定的になりました。ヴィルヘルムは1922年にベルリンフィルの音楽監督になっていますが、1930~40年はどのようになっていたでしょうか。

 

 ストコフスキーは1910年代から、オーマンディは1927年に既に新大陸に旅立っています。ユダヤ系のクレンペラーはナチ政権になる1933年、エーリッヒが1935年にザルツブルグ音楽祭から出国、トスカニーニも1933年にヨーロッパを旅立ち、1939年にはセルもワルターも亡命していきます。ドイツ系の残った指揮者はウィルヘルム、ヘルベルトは当然として、クレメンス(クラウス)にアドルフからヘルベルト同様反感を持たれていたハンス(クナッパーツブッシュ)、そしてオランダから客演に来たウィレム(メンゲルベルク)ぐらいなものです。

 

 この巡り合わせは『たら』『れば』があれば大きく変わっていたでしょう。ワルター、トスカニーニ、エーリッヒ、セル、オーマンディがいたら、ヘルベルトがベルリン州立歌劇場で指揮をし続けられたでしょうか。
また、レパートリーの少ないヴィルヘルムがベルリンとウィーンの両方、さらにバイロイト、ザルツブルグを統治できたでしょうか・・・

 

 運命のいたずらとは、とても面白いものです

 

 アドルフ、ヘルベルト、ウィルヘルムの3人の生年月日等を比較してみます。
ウィルヘルム1886年1月25日~1954年11月30日(68歳で死去)
アドルフ1889年4月20日~1945年4月30日(56歳で死去)
ヘルベルト1908年4月5日~1989年7月16日(81歳で死去)

 

 ちなみに1940年時点の年齢はウィルヘルムが一番年長で54歳、アドルフが51歳、そしてヘルベルトが32歳です。アドルフは除いたとしても主役二人はどういう状況に立っていたかは全く予想がつかない話です。
ちなみにここで運命を調べるために『四柱推命』なるもので、彼らの性格をおっていました。もちろん、お遊びの範囲を超えていませんが。ただ、太字のところは彼ら3人の特性をきちんと表しています。

 

<四柱推命>
■ヴィルヘルム
【性格】
時を敏感に察知する能力の持ち主で、理念や理想よりも現実を重要視します。かなり執念があり、粘り強くて、感受性が強いでしょう。社交好きで、協調性に富んでおり、派手好きで、恋愛結婚の可能性が高いでしょう。
【仕事】
入ってくるお金を運用したり、投資したりすることに意欲的で、商才があります。
但し、人間的な誘惑に弱く女性問題など仕事以外の面でトラブルを起こさないことが肝要です。

■アドルフ
【性格】
生まれつき人より優れたところを持っており、自尊心が強いので、反感を持たれる傾向があります。
都合のいい人ばかりをまわりに置くのは、良くないでしょう。また、リーダーとしての適正はありますが、対人関係がよくありません。独立した仕事をやったほうが成功します。
神経質で、おしゃべりのうえ、気位が高い人でしょう。
【仕事】
スポーツ、技術、営業など多くの分野で能力を発揮するでしょう。そのかわり、自分を押さえることが難しく仕事場ではトラブルを起こしやすいでしょう。
特殊な分野で最大限に能力を出し切ることが成功のポイントです。

■ヘルベルト
【性格】
浮き沈みの激しい人生です。人の非難や評判などに気をとられずに突き進むならば、道が開けます。
壁は多いのですが、突き進む努力をすれば、大丈夫でしょう。

仕事はまじめにこなしますが、頑固なところがあります。人を指導したり、管理することで能力を発揮するでしょう。また、物事をクヨクヨ考える性格で、直感力があり、短気ですぐに活動します。
【仕事】
仕事運はよいのですが、変動が激しく激動の運勢をたどる暗示があります。もともと、指導性があり、管理能力を持っていますので、地位、名誉、出世、社会性、職業性、指導性を求めることで発展を得られるでしょう。

 

 ヘルベルトは、1948年に待望のザルツブルグ音楽祭に登場します。そこで『オルフェオとアウリディーチェ』と『フィガロの結婚』を振ります。そしてヴィルヘルムも同音楽祭に出演します。二人ともEMIと契約していたのでEMIのウォルター・レッグが彼ら二人を夕食に誘います。そこでは親しく語らい、問題なく別れたはずでした・・・

 

 しかし、翌日ヴィルヘルムは音楽祭の理事を呼びつけ「カラヤンが今後もこの音楽祭に出演するのであれば、自分は出ない」と脅迫します。
 カラヤン、翌年には出ますが、その後ヴィルヘルムの目の黒いうちにザルツブルグに現れることはありませんでした。追放処分です。そして、、傷心の中、ミラノ・スカラ座でデ・サーバタの庇護を受け、ドイツオペラを振ります。そして、この頃からあのマリア・カラスと競演するチャンスを得たのです。

 

 1949年にザルツブルグ音楽祭をクビになったヘルベルトは1951~52年にバイロイトに現れます。片やヴィルヘルムはヘルベルトの牙城スカラ座にも現れ1950年3月~4月に『指環』全曲を演奏します。それも手兵ベルリンフィルをほったらかしてもです・・・
 さらに1953年の10月~11月にもローマのRAIoで『指環』を放送用に公開演奏しています。これは、通称「ローマの『指環』と呼ばれていて、1954年にウィーンと録音する全曲の練習だったと言われています。

 

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演奏:ミラノ・スカラ座管弦楽団・合唱団
録音場所:ミラノ・スカラ座
収録:1950年3月4日~4月4日ライヴ・モノラル
 
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演奏:RAIローマ交響楽団
録音場所:ローマ、アウディトリオ・デル・フォーロ・イタリーコ
収録1953年10月26日~11月27日モノラル録音
 
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ワーグナー/楽劇『ワルキューレ』(~楽劇『ニーベルングの指環』第1夜~)
指揮:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
マルタ・メードル(ソプラノ:ブリュンヒルデ)
レオニー・リザネク(ソプラノ:ジークリンデ)
フェルディナント・フランツ(バリトン:ヴォータン)
ルートヴィヒ・ズートハウス(テノール:ジークムント)
マルガレーテ・クローゼ(メゾ・ソプラノ:フリッカ)
ゴットロープ・フリック(バス:フンディンク)、他
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1954年9月28日~10月6日ウィーン・モノラル録音

 マーク・オバート=ソーン復刻。『ニーベルングの指環』全曲の録音が計画されていながら、フルトヴェングラーの死によって実現せず、遺産となってしまった録音ですが・・・・

 

 ヴィルヘルムは、戦後における『指環』演奏は上記のとおり、2種のCDを残しています。1作目が1950年のミラノスカラ座、そして2作目は同じくイタリアのRAIsoによるものです。ともにイタリアの管弦楽団のもので、次作品はEMIが総力をあげてスタジオ録音の『指環』全曲に取り組もうとしたものです。この録音については「ステレオ録音」でといううわさのあったものです。もし、ヴィルヘルムがあと5年長生きしていたら、史上初のスタジオ録音『指環』はステレオ録音で完成するところでした。

 

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 しかし、この1作目も本当は完成していませんでした。ヴィルヘルムの病状は9月の段階で悪化の一途をたどると同時に、耳の方もほとんど聴力も失っており、ベートーヴェンの晩年と同じ状況になっていました。この録音は10月6日までとなっていますが、ヴィルヘルムは、2か月後の11月30日没しています。そして録音は全部なされないままだったそうです・・・・

 

 ある指揮者が残りの録音をしているということです。これについて故人の妻は否定していますが、10月6日の段階でかなり抜け落ちていました。
 残りの録音を行った指揮者。ハンスでもなければ、クレメンスでもありません。もちろんセルジュであるわけはないです。
これを読んでいる人の予想どおりです。バイロイトにおいて予定していた『指環』録音を奪われた若きマエストロ・ヘルベルトです。ヴィルヘルムの音楽に心酔した彼が残りの録音をして完成させたのだそうです。

 

 この楽劇『ワルキューレ』の最終部分のブリュンヒルデのとおり、ヴィルヘルムは『魔の炎』につつまれ2度とそこから出ることはありません。
 ヘルベルトはヴィルヘルムに大きな政治力を与えられ、強固な『帝王』になっていきます。まるでノートゥングを手にしたジークフリートのようです・・・・