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 1980年にカラヤンは72歳になりました。僕の最も大事に思っている小澤征爾さんがこの年齢になっています。指揮者は比較的長生きであることが多いですが、この年齢から晩年の指揮と考えていいと思います。ストコフスキーみたいに90歳になっても指揮の契約を複数年行うという指揮者までいました。
ちなみに早死にをしてしまった名指揮者(になったであろう)にトーマス・シッパーズとイシュトバン・ケルテスがいます。ともに40歳になった時に不慮の事故で亡くなっています。他の分野でもいえますが、一瞬に光ることも重要ですが、トータルで実績を考えたとき、『無事是名馬なり』ということは事実なんだと思います。

 

 この1980年に起きた最も大きな事柄というと、『デジタル録音』が普及したことです。カラヤンはこのデジタル録音にすぐ飛びつきました。そのデジタル録音第1号はあの超名盤にして初録音の『アルプス交響曲』です。カラヤンはもともとは工科大学出身で非常にテクノロジーを重視する人間だったので最新の機械を何よりも好んだことは当然かもしれません。ちなみに81~89年に59組のアルバム録音を作成しています。

 

 ただ、『~番外編12~』でも記載したとおり、カラヤンの横暴な態度は周囲に軋轢を起こしています。自分に従う者を怖れさせ、自分に刃向かう者も恐れさせます。
もちろんこれは極端な言い方かもしれませんが、彼を「真の友」と感じる音楽関係者がどれだけ居たかは疑問です。彼の真の友人と言われる人々は同じ音楽界ではなく、飛行機仲間や登山仲間、クルマ仲間でした。

 

 70代のカラヤンに最初に降りかかったのはもちろんザビーネ・マイヤーの問題です。80年代のカラヤンに音楽的に関して、変化をしていきます。それは、『~その26~』あるいは『僕のアイドル『ヘルベルト』~その1「プロローグ~鬼神」』でも書いたマーラーの交響曲第9番の2枚の差もそうですが、Rシュトラウスの『メタモルフォーゼン』を聴いてもわかります。1973年1~2月に録音していますが、『~その12~』でも書いたように80年代に指揮したカラヤンのRシュトラウスもう一つ異なった次元にその音色を持って行っています。音楽の「研ぎ澄まされ方」はどれも究極にまで進んでいます。

 

 ところでこのことを御存知でしょうか。建築やクルマの塗装で最も深みのある『白色』を作るときどうするのか。
ほんの少し『濁ったきたない色』を入れます。反対のものを少し入れることで、強調したいものが強調されるのです。スイカを甘くするのにほんの少し塩を入れるのと同じです。

 

 80年代は本当の意味でカラヤンがどこを向いていったのかを判断するのはむずかしいことです。1983年のマイヤーにかかる事件がなければ、カラヤンはウィーンフィルとの新たな関係を結んでいなかったと思います。カラヤンの音楽は一方で70年代の音楽をリファインする動きと「音楽の原点」に進む動きと両方の動きを示し迷走していきます。カラヤンが常に再録音に執念をかけていたのがブラームス、ベートーヴェンそしてチャイコフスキーでした。

 

 この1983年の3時間に及ぶ脊椎手術後、カラヤンはベルリンフィルへの演奏会を極端に減少させています。そして84年以降はウィーンフィルとの関係を深めていきます。カラヤンはその中でオーケストラを選択し、録音をしていきました。

 

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 左からベートーヴェン(1982~84年:ベルリンフィル)、チャイコフスキー(1984年:ウィーンフィル)、ブラームス(1987~88年:ベルリンフィル)

 
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 左はNHK交響楽団との1954年の『悲愴』。そして右は『カラヤン普門館ライヴ1979』。
 カラヤンとベルリン・フィルによる1979年の普門館ライヴ。「帝王」カラヤンの指揮者活動50年の祝典が行われた記念の年、カラヤン6度目の来日公演からのライヴ音源です。
 この第九の公演はFMで同時放送され、これがFM開局10周年を飾るデジタル録音の第1号となりました。この時の演奏は、カラヤン、ベルリン・フィルの絶頂期の名演として語り継がれていたものです。NHK技術研究所に残されていた当時の録音テープが、CD化にあたりハノーヴァーのに持ち込まれマスタリングを入念に行い最高の音質でリリースされました。
 録音については、オフ気味に聞こえます。NHKは、補助マイクなしのワンポイント録音しています。長所は、『楽器の定位がピンポイントで決まる事で奥行きが出ます』。マイクがとても優秀で、オーケストラと合唱が混濁せずに綺麗に録れています。マルチマイク録音に無い良さがあります。1981年のミラノスカラ座(クライバー、アバド来日)録音もこの方式です(CD未販売)。

ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 op125『合唱』
アンナ・トモワ=シントウ(ソプラノ)
ルジャ・バルダーニ(アルト)
ペーター・シュライアー(テノール)
ホセ・ファン・ダム(バス)
ウィーン楽友協会合唱団
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
録音:1979年10月21日普門館デジタルライヴ

 

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 オペラについてはデジタル録音開始とともにまず『魔笛』と『パルジファル』です。ともにスタジオ録音では24年以上前だったり初録音だったりします。オーケストラはがベルリンフィルがつとめています。ここでカラヤンは面白い録音の仕方をしています。モーツァルトはこれを前後して三大作品の録音をしています。1978年5月に『フィガロの結婚』、そしてこの『魔笛』さらに85年1月に『ドンジョバンニ』を録音しています。『フィガロ』はウィーンフィルを活用しておきながら、残りの2作品はベルリンフィルを起用しています。多分最後にあるであろうモーツァルトに伝統の音を出すウィーンでなくベルリンを使用したことは今も謎です。

 

 それとは逆に、上記のチャイコフスキー交響曲の84年録音にベルリンでなくウィーンを起用したことです。60年代→70年代2回といずれもベルリンフィルで練り込んだ後のことです。1984年は大事件が起こっていて、後で書きますが、そのためウィーンを起用したとも言われています。この録音は日本の評論家たちは絶賛していますが、海外での評価は高くありませんでした。ちなみに1985年の「レコード芸術」では諸井誠氏「過去6回のいずれも超える名演」、小石忠男氏は「カラヤンのおびただしいレコードの中でもトップクラス」としていますが、海外評『グラモフォン』歳や『ディアパゾン』誌はもう少し抑えた言い方をしています。

 

 名人芸ではいずれもベルリンフィルに及ばないという評ですが、面白い評の中に『ディアパゾン』誌は『第5番』について「スラブ的」でも「西洋的」でもない『普遍的』という言い方をしています。『~番外編14~』でも書くのですが、カラヤンは新たなパラダイムとして楽譜に忠実に演奏することをこの時期に志向しています。それまでのベルリンフィル演奏録音のように楽器毎の音が有機的にブレンドして『統一感のある音』なのが、この新録音では楽器の「音」が個性を帯びて出てきます。ブレンド面が薄れ楽器の自己主張がなされているのがこの演奏の特徴です。

 

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 カラヤンはこの録音時に楽譜に一切書き込みなしに臨んだということはあまりに有名です。左の写真は、カラヤンが楽譜を読む風景として彼の晩年の写真集にめずらしく掲載されたものです。彼は決して公式の場で音楽の勉強することを外に見せません。他の指揮者がエネルギッシュに汗を流しながら指揮する姿を「よし」としませんでした。

 

 「カラヤンはレコードによって作られた指揮者」とウォルター・レッグは『回想録』で言っています。自分の気に入るニュアンスをたぐるために、他人のレコードをよく聴いたそうです。それこそ1小節1小節聴くそうです。レッグに「『海』のここのところのミュンシュを聴きましたか?全く驚き入ったものだ。いつか私たちもあれをやってみましょう」そしてカラヤンは50年代後半のインタビューで次のことを述べています。

 

 「何をどこから取り入れたか、どこから何を取り入れたか認めることを私は少しも恥とは思いません」

 

 カラヤンは自分が接した全てのステージ毎にその人の音楽を暗記しています。
 小澤征爾氏もこう言っています。
 「カラヤン先生は、コンサートの翌日『セイジのあの部分は良かったが、あの部分はもっとこうしたふうがいい』と非常に細かいところまで指摘してくれます。あの記憶力には驚きます。・・・」

 

 カラヤンは自分の音はもちろんですが、人の音を聴いて、きちんとその楽想を学ぶことをしています。理想の音を求めることを一生続けていった中で上記の選択をしたことが彼のポイントだったんだと思います。経験による響きと楽譜の狭間の中でカラヤンは終末を迎えることになります。

 

 晩年の彼の意図は、彼の存命中にはなかなか理解されることがありませんでした。ベルリンフィルのアンサンブルも70年代のような厚味はなく、ウィーン・フィルとの演奏も若い時にはワルツの際も決して認めていなかったウィーンの少し手を抜くボウイングをこの80年代には採用しています。回りからは「『帝王』の統率力が落ちた、あるいはオーケストラのアンサンブルが70年代と比較して落ちた」という言い方がされました。

 

 これはカラヤンの存命中は「定説」として取り上げられていました。

 

 しかしながらこれらの批評はカラヤンの目指すものを正確に伝えていませんでした。カラヤンの出した答は最後の録音により明確に出されています。彼はその「音楽の浄化」を結果としてある曲に託しています。そしてそのことは彼が没し、そのCDが世に出てからのことになります。
 このことは、最後の記事『~その30~』に譲ります・・・

 さて、カラヤンの存在については、『帝王』から『暴君』という表現に変わりました。
1982年には映像を主に扱う『コスモテル社』の失敗を受け、新たな映像会社『テレモンディアル』を立ち上げます。音楽についてはDGとの相互乗り入れを企画しますが、その後88年SONYがCBSを買収すると『テレモンディアル』は『SONY』と組むのではないかとし、ヨーロッパの音楽連合が神経質にないました。同88年には長年力を持ち続けたザルツブルグ音楽祭の理事を降りてしまいました。

 

 しかしながら、来日公演はするということで、カラヤンとSONYの間で密約があるのではという疑心暗鬼がDGに流れ、カラヤンとの面会もままならぬ、周辺はカラヤンの扱いに四苦八苦していた。
 ザビーネ・マイヤー問題では1984年に彼女からのベルリンフィル辞退という結果で幕引きになり、カラヤンはこれをベルリンフィルにより彼女を追い込んだと激怒することになりました。
彼は6月に予定されていた精霊降臨祭にベルリンフィルに出演することをキャンセルし、代わりにウィーンフィルと競演しています。

 

 さらに1985年ザルツブルグ音楽祭の『カルメン』で、ずっと可愛がっていたアグネス・バルツァとの演出上の問題による「永久追放問題」、これらで周辺からはカラヤンは完全に孤立していきます。
1988年9月25日にカラヤンはベルリンフィルと最後のシーズンに入っていきます。