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 カラヤンについて、いろいろな表現で書いてきました。基本的には肯定的に書いてきていますが、『全てを是』と考えているわけではありません。『否は否』『悪いものは、やはりに悪い』わけです。
 カラヤンは「優れた芸術家」「優れたプロデューサー」「優れたリーダー」そして「優れたチャレンジャー」であったことは確かです。彼は『強固な意志』と『特有の美意識』を背景に生涯を送りました。

 

 約60年において一貫した音楽へのスタンスはやはり非凡なものでした。
 ただ、非凡な人間は、周りを愚かと見るか、哀れと見るかの違いがあります。もちろん彼の行動を客観的に判断すると前者であることが非常に多いです。
 彼に強固な意志を付けたのは、もちろん彼自身によるものですが、後天的な意味合いも大きいです。

 

 カラヤンが音楽と本格的に接するのは1911年の3歳の時です。この年に起こった大事なことはグスタフ・マーラーの死、そしてストラヴィンスキーにより『ペトルーシュカ』の発表があったことです。このザルツブルグにモーツァルト以来二人目の神童が世に出ることになったのが1911年です。

 

①カラヤンVSフルトヴェングラー

 カラヤンの将来を決定したのは、『奇跡のカラヤン』と異名をとることになった1938年です。4月に初めてベルリンフィルを振り、10月にはベルリン州立歌劇場で『トリスタンとイゾルデ』を取り上げ、大成功を納めました。しかし、ここから彼は政治的な渦中に入り込んでいきます。

 当時ドイツ全体の歌劇場並びにオーケストラは全て宣伝省と全国文化院を一元的に管理するゲッベルスの支配下にありました。『ナチおたく』ならよく承知していることですが、このゲッベルスは「ナチによる火の行進」をして、ドイツ国民の深層心理に訴えかける工作をしました。さらにヒットラーの演説を数多く行い、まだ彼の知名度がない地域では、四角い会場において、サクラを『×型』配置し、演説のポイントごとにサクラが大拍手をするということを敢行しました。このようにすると、会場に来た人間はどこからも大歓声が起こっているように聞こえ、それを何度も何度も行っていくことで、民衆がナチに傾倒するようにし向けました。少数のサクラの配置で大きな成果があげられる方法として、今でも「新興宗教」や「ねずみ講」の人集めに使用されている手法です。

 このゲッベルスに対抗していたのはプロイセン州(ベルリンはこの州に入ります)首相だったゲーリングです。ベルリン州立歌劇場だけは彼の支配下にありました。
 この2人は大変に仲が悪く、ともにヒトラーの寵愛を受ける工作をしていました。当時ゲッベルスはフルトヴェングラーを重く登用していて(『~その24~』で書いたヒンデミット事件でフルトヴェングラーが全てのオーケストラの職から下りても、演奏をさせ続けたのは彼です)、このゲッベルスに対抗するため、ゲーリングはカラヤンを活用したわけです。

 つまり、このナチの2人に芸術家二人は「代理戦争」することになりました。そこで、カラヤンは多くの政治的駆け引きあるいは、他者の支配の方法を覚えていくことになりました。特にフルトヴェングラーの執拗な陰湿な行動に20年以上も苦しめられることから、次第に屈強な政治手法を身につけることになりました。

 例えとしてはよくありませんが、「ある病原体に、ある薬を使用していくと、病原菌は抵抗力を付け手の負えない病原菌に変貌する」のと同じく『劇薬フルトヴェングラー』を使用された『病原菌カラヤン』は何度も死滅しかけるが、20年の時を経て強力な「病原菌」に発展したということです。

 「帝王カラヤン」の人間性は本質の気質部分に、これらのスパイスが付くことで完成したと言ってもいいでしょう。

 そのカラヤンのまだ弱い時期、彼はナチス党に入党してしまいます。1933年アーヘンの歌劇場で音楽監督就任あたってのことです。この時若干25歳です。さらに1935年にも入党しています。この2回の入党は、彼の戦後に大きな影を及ぼすことになります。背伸びをしようとした彼の行為は、許されるかどうかということはずっと議論になりますが、「ユダヤ人虐殺」行為は この1933年には予想できなかったかもしれません。ドイツ軍のポーランド侵攻により本格的に始まる第二次世界大戦勃発のも6年前のことです。

 彼の影響力など、まるでない時期であるし、1934年にウルムを解雇されて失業の経験もしていて是が非でもポストに就きたいと願った結果だということもできなくはありません。この事は結果として罪ではあっても同情の余地はあるものだったかもしれません。

 そして、1940年にベルリン州立歌劇場で『マイスタージンガー』を出演歌手の失敗によりヒトラーの前で大失態を演じ、それから完全に干されてしまいます。
ただ、翌年(1941年)には同歌劇場のオーケストラを占領したパリに連れて行き『マイスタージンガー』前奏曲などを演奏しています。この模様が『~番外編7~』のものです。このパリでの宣伝行為(連合国の言い方)も、戦中のナチ協力疑惑としてとらえられました。

 

 カラヤンのこのような行為は結果として軽率な行為であったかもしれませんが、民衆を扇動したというところまでには至っていないとも考えられます。逆に「天はカラヤンを選んだ人間とし、最も核心的部分からはずした」と言えなくもありません。

 

『時代』が将来のカラヤンを求める行動を取ったのです

 

と思えてなりません。ここは個人個人によって考え方は異なると思います。ただ、積極的に公開の場で音楽による洗脳行為をしたフルトヴェングラーが『白』ならカラヤンは『真っ白』といってもいいのではないかと思います。少なくとも僕はフルトヴェングラーを『白』とは考えられません。

 

 そして、戦後はフルトヴェングラーという大きな大きな「重し」が1954年をもってなくなります。この重しがあまりにも巨大だったので、他の芽もほとんど摘まれていました。その石の下で強く根をはっていたのがカラヤンです。
 彼の凄味は、このフルトヴェングラーとの戦いにおいて頑強になってしまいました。ヨーロッパ最強のプロデューサー・レッグとのつながりも、まさに「天」が与えたものかもしれません。知名度はフルトヴェングラーの方があったのにもかかわらず、彼ら二人はつながっていきました。

 

ここでカラヤン王国を立ち上げます。

 

 ライバルがほとんどいない中でカラヤンは2人のライバルと出会ってしまいます。いずれもヨーロッパ大陸を本拠にしていない人間です。一方は米国・英国を中心に活動してしたショルティと生粋のヤンキー・バーンスタインです。
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②カラヤンVSショルティ

 『~その23~』でも書きました『指環事件』がいろいろなことに波及しています。60年代前半までカラヤンはEMIとデッカと契約を結んでいましたが、60年のEMIに引き続き63年にはデッカとも契約解消しています。これは、この時期、ウィーン国立歌劇場とカラヤンが『指環』を断続的に演奏しつつも、デッカがショルティになびいてしまったことにあります。63年以降はしばらくの間DGと専属契約を締結します。

 

 ここでさらにとばっちりを受けたのが、ショルティです。彼は1959年まで、定期的にザルツブルグ音楽祭で指揮し、その後もウィーンフィルとの関係が薄くなったカラヤンの時期1962年と64年にザルツブルグに再登場してオペラを振っていたのですが、この後は、観衆の要望が多いながらも、カラヤンが没するまでザルツブルグに登場することはできませんでした。そのことは、カラヤンの指示ではなかったわけですが、カラヤンの側近たちが勝手に気を利かせて?ショルティ排除をしたというのが事実のようです。
 但し、カラヤン死後はその年彼が夏のザルツブルグ音楽祭で振る『仮面舞踏会』を指揮しただけでなく、カラヤン音楽祭ともいえるイースターもショルティが2年間も振ることになりました。「因果応報」とはこのことでしょうか・・・

 

 なお、『指環』に執念を燃やしたカラヤンはレコード業界で実力行使に出ます。この後、ショルティが『指環』を録音したデッカと一定期間仕事をすることはなかったし、カラヤンが関係する音楽祭にも一切そばに寄せませんでした。

 

③カラヤンVSバーンスタイン

 1969年5月17日にバーンスタインがニューヨークフィルと最後の演奏会をすると、24日にはウィーンフィルを振ります。なんと「ウィーン国立歌劇場100周年」です。翌年もベートーヴェン生誕200年行事に『フィデリオ』を演奏し録音までします。バーンスタインとは1958年の「ニューヨークフィル客演事件」以来、交流が完全に断絶しました。その良く思っていない人間を登用し、ヨーロッパの帝王カラヤンを差しおいてです。さらに辛酸を舐めさせられたと感じたのが、この時録音をカラヤンが専属契約を締結しているDGが実施したということです。

 

 バーンスタインのヨーロッパ録音はロンドン(=英デッカ)だったはずなのにです。カラヤンは大きくプライドを傷つけられました。DGとしてはヨーロッパ制覇をするべく、「カラヤン=ベーム=バーンスタインの3巨頭体制」を確立のための行為でした。

 カラヤンは、本来バイロイトに対抗した「カラヤンによるワーグナー音楽祭」としたにザルツブルグ・イースターにおいて翌年71年に『フィデリオ』を演奏し録音して応戦します。
そして、その後仲違いをしていたEMIと重要な契約をし、DGの仕打ちに反撃を加えます。
あの、「チャイコフスキー後期3部作」はこのEMIにおいて71~73年に録音するとともに、75年以降重要なオペラ録音もEMIと実施します。世紀の名演『アイーダ』と『サロメ』は『~その17~』でも書きましたがこれがきっかけで生まれたのです。

 

 

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 カラヤンは自分に従わないものに対しては疎外するのではなく、徹底抗戦で応じることを実施してきました。『自分の城』を絶対化した事、結局は彼を怖れさせ、彼から人が離れることを強いたのかもしれません。1950年代に彼の威光のもとマリア・カラスさえも屈服させていますし、晩年の1985年のザルツブルグで『カルメン』の主演であったアグネス・バルツァはずっとカラヤンのお気に入りだったにも関わらず、演出上の対立で「永久追放」にさせられました。そのバルツァ、1989年8月ムーティによるカラヤン追悼のヴェルディ『レクイエム』でソプラノを歌います。

 

 この独裁的やり方はやりすぎだったのではないでしょうか・・・
 結局、1989年ベルリンフィルに足をすくわれたのも『必然的』だったのかもしれません。そしてその年の夏・・・・

 

『時代』は彼の必要性を感じなくなり、彼を奪っていったのです