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 カラヤンはザルツブルグにこだわりました。
 ザルツブルグといえば、もちろんあの神童モーツァルトの生地です。カラヤンは19世紀の初頭にこの地に生を受けています。但し彼自身はギリシア系で生粋のゲルマン民族ではありません。ミトロプーロスと同じ血を受け継いだ指揮者です。

 

 しかし、カラヤンはゲルマンという民族にこだわった生き方をしています。生活そのものはとても質素で質実剛健の中で生きようとしていました。ルーマニア人のチェリビダッケがドイツにこだわったように、カラヤンもドイツにこだわりました。もちろん彼の父もドイツ人で彼らは貴族の家柄であったわけですけど。

 

 カラヤンの一番の功績はクラシック音楽を一般大衆に開放したことは紛れもない事実です。さらに彼はその延長として多くの有能な音楽家達を世に送り出しています。メータ、アバドに始まり小澤征爾、オッコ・カム、マリス・ヤンソンスなど有能だと思われる音楽家は次から次へとベルリンフィルで指揮をする機会を与えました。それは単に若手だけではありません。

 

 東側の音楽家もです。クラウス・テンシュテット、クルト・マズア(1976年)もいますが、実はそれ以前にソビエトの指揮者がベルリンフィルの指揮台に立っています。ユーリ・テルミカーノフ(1970年)、ワレリー・ゲルギエフも1977年という時期にすでにこの指揮台に立っています。さらに1979年にはエミールチャカロフまで。東側の指揮者は亡命というのがつきものでしたから、なかなか本国政府は許可を与えませんが、ベルリンフィルは招聘(身元引き受けをおこなうという条件で)していきました。さらにセミョン・ビシュコフについてはベルリンフィルに登場すると後継者に名前があがる指揮者にさえなりました。

 

 さらにカラヤンはザルツブルグ音楽祭にも多くの指揮者を引っ張り出してきました。もちろん、春のイースターは1967年から、夏の音楽祭もずっとベルリンフィルと登場しました。すでに何度もここでも書いたようにベルリンフィルをオケピットにも入れました。
 このことに対し、当初、ウィーンフィルは『北のオーケストラ』(ウィーンフィルはベルリンフィルのことをこのように呼ぶのだそうです)が自分たちの牙城に侵入してきたと警戒感を強めました。

 

 実際、イースターについては75歳(1983年)になるまではカラヤンしか指揮台に立っていません。
なお、ここでは『ニーベルングの指環』に始まり『さまよえるオランダ人』『トリスタンとイゾルデ』『パルジファル』とバイロイトに対抗する演目を掲げていましたが、その後『フィデリオ』『影のない女』『オテロ』『ファルスタッフ』『シモンボッカネグラ』などを演奏しています。残念ながら『影のない女』と『シモンボッカネグラ』は録音されていません。

 

 この中で1967年に演奏された『ワルキューレ』については今でも伝説の演奏と呼ばれています。プレミエ後の観客の感激は異常な興奮につつまれたそうです。同年3月「ツァイト紙」の記事では「あらゆる歌劇場のオーケストラやバイロイトを凌駕した演奏」と書かれています。ここでベルリンフィルを世界最高のオーケストラと賞賛しています。さらに74年に演奏した『ニュルンベルグのマイスタージンガー』もそれに匹敵する演奏と言われています(70年にドレスデン国立歌劇場で録音されていますが、残念ながらベルリンフィルとの録音はありません。この録音が世に出ることはあるのでしょうか・・・)。

 

 カラヤン死後、1999年にはベルリンフィルはドイツの「ベスト・オペラ・オーケストラ」に選定されています。カラヤンにより磨き上げられたオーケストラはまさに頂点に君臨することになりました。
ちなみに21世紀になった今もイースターではオペラ演奏がなされています、2003年には『フィデリオ』、2004年には『コシファントゥッテ』といった古典をやっています。今年2008年はカラヤン生誕100年でしたが、先にも書きましたがこの音楽祭で屈指の名演と伝説の残っている『ワルキューレ』をラトルは指揮しています。
ちなみに今年の演目は以下のとおりでした。

 

【ザルツブルクイースター音楽祭2008】

3/15(土)
ワーグナー 楽劇『ワルキューレ』
指揮:サー・サイモン・ラトル
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
3/16(日)
ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番
指揮:小沢征爾/ヴァイオリン:アンネ・ゾフィ・ムター
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
3/17(月)
ハイドン:オラトリオ「天地創造」
指揮:サー・サイモン・ラトル
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
3/18(火)
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲
ブラームス:交響曲第1番 外
指揮:サー・サイモン・ラトル/チェロ:ハインリヒ・シフ
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 

 これらは、皆カラヤンが得意としていた曲です。
75歳になってからカラヤンは客演指揮者を呼んでいます。イースターでは84年からエッシェンバッハ、テンシュテット、シャイー、マズア、そして聖霊降臨祭ではマゼール、小澤征爾、アシュケナージ、レヴァインといった指揮者がこの『春のザルツブルグ』の指揮台に立っています。

 

 1988年にはカラヤンは『トスカ』をやっています。この時の演奏も非常にレベルの高い演奏として今もCD化の声があがっています。DGによる録音クルーが入ったとも入っていないとも情報が流れていません。

 

 1989年7月にカラヤンは没していますが同年8月27、29日にムーティによってヴェルディの『レクイエム』が追悼曲として夏のザルツブルグによって行われています。ちなみに、カラヤンはザルツブルグでは同曲を1978年8月28日、1980年8月27日、1989年3月27日の計3回演奏しています。

 

 そして、故人への最大限の敬意を表すため、ベルリンフィルは1989年9月フィルハーモニーザールに「カラヤン追悼音楽」を指揮者なしで演奏しています。曲はシューベルトの『未完成交響曲』の2楽章だったそうです。

 

 遅れること1か月。ウィーン・フィルは9月になり、なんとレナード・バーンスタインを擁して「カラヤン追悼音楽」を奏でています。
 バーンスタインは1958年ニューヨークフィルにカラヤンを招きました。実は彼らが知り合いになったのは、それを遡ること5年前の1953年にスカラ座でのことでした。米国人としてスカラ座の指揮台に立ったバーンスタインは中川右介氏の著書によれば、カラヤンのことを「僕のナチの友だち第1号」と形容し、妻に手紙を送っています。

 

 しかし、その58年、カラヤンの承諾を得ず、テレビカメラの撮影をしたことでカラヤンは激怒して彼らの友情は終了します。その後1969年の『フィデリオ』事件でカラヤンはバーンスタインに憎悪の念すら抱くことになります。1979年の『マラ9』事件では逆にバーンスタインがカラヤンの行動を卑劣な行為としてとらえました。そのバーンスタインがウィーンフィルとともにカラヤンを追悼します。
そしてバーンスタイン自身も翌年の10月に旅立つわけですが・・・

 

「長年の元妻」と「愛人」からの追悼にカラヤンは何を思うのでしょうね。


 

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これはカラヤンの生家です。2002年の春に行きました・・・


 

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