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 多くのワーグナー作品を録音しているカラヤンですが、本格的な録音は66年の楽劇『ラインの黄金』以降です。このカラヤンもそうですが、前任のフルトヴェングラーもワーグナー作品をとても重要なレパートリーとしていました。特に『ニーベルングの指環』を録音することは、特別な意味を持っています。

 

 ワーグナーが26年を要したもので『血族』と『愛』とは何かというテーマが脈々とやどっています。
音楽にもきちんと「動機」が存在し、演奏している音楽が何を表しているのかも演奏の過程でわかります。バッハの「マタイ受難曲」や「ヨハネ受難曲」のように福音が流れを決定し、楽器が意味するところでどういう展開になっているのかをワーグナー流に進めています。

 

 このオペラのヴォータンこそが『マタイ』でいうところの福音の役割をしています。
神が崩壊していく様、そして女性が秩序を保とうとする役割ははまさに『マタイ受難曲』と同じテーマで展開しています。ワーグナー自身が音楽の中身の面ではバッハの範疇にあるわけではないですが、動機の展開ではバッハを意識しています。
彼は「英雄」の登場には『指環』に限らず、必ずトランペットの響きで答えています。これは、バッハの時代から神の福音にトランペットを使用することになぞっていると考えていいものだと思います。

 

 ワーグナーの壮大なオペラは「ドイツ精神」を脈々と受け継いでいるものであり、芸術としてもドイツ音楽の最高峰として位置づけられています。カラヤンは1966年つまり彼が58歳の時に録音を着手し、1970年の62歳に完成をみます。

 

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 それ以前、ハンガリー出身のゲオルク・ショルティが金字塔を打ち立てています。彼がウィーン・フィルなどと1958~65年に録音したワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』(全4作品)は、レコード演奏史に残る傑作として名高いものです。

 誕生の原動力となった英デッカの名物プロデューサーであるジョン・カルショーは、制作にかかる「リング・リザウンディング」という本を残しています。しばらく絶版になっていましたが、今回再発行されています。かつては黒田恭一氏による翻訳でしたが、新刊は山崎浩太郎氏による翻訳です。
 面白いので是非ご覧下さい。

 この全曲録音が誇るセールスポイントは多いですが、何よりもテノールのウォルフガング・ヴィントガッセンやソプラノのビルギット・ニルソンら、20世紀を代表するワーグナー歌手を揃えた点です。満を持してこれらの歌手がショルティのもとに集っています。1956年にこの指揮者に託して超大曲を録音したレコード会社の英断に敬服します。

 また、録音について感動的な逸話もあります。上記のプロデューサー・カルショーの人間くさいエピソードや、ウィーン国立歌劇場の背景がやはり存在します。さらに、『ラインの黄金』フリッカ(ヴォータンの妻)を歌ったキルステン・フラグスタートとの交流は裏話としても感動的です。次作『ワルキューレ』以降の録音にも出演を望まれながら、病に倒れ断念し、死に至るまでの話は涙なしには語れません。

 当時の最先端技術だったステレオ録音の効果を極限まで高めようと多くのアイデアを施し、録音スタッフはその製作にあたっています。それらを完全に実現させた制作者の強い思いに敬服します。オペラ録音が費用に多額のコストがかけられなくなった現在で、このような贅沢の限りを尽くした録音はもうできないことは残念でなりません。

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 カラヤンとショルティの『指環』の録音にかかるエピソードも両巨匠のプライドのぶつかりあいでした。カラヤンは『~その7~』及び『~その11~』でも書いたとおり1951~52年にバイロイトにおいて『ニーベルングの指環』全曲を録音する計画をしていましたが、当時、バイロイトを仕切っていたヴィーラント・ワーグナーとの対立で不可能になりました。その後、スカラ座などと実演ではやっていたのですが、録音にコストがかかるのと、歌手がそろえられないこともあり、カラヤンによる『指環』は録音の日程から立ち消えました。 

 そんな中、ショルティの『指環』4部作の録音計画が1956年頃からあがってきました。この時期カラヤンはフィルハーモニアo中心の演奏を行うと同時にウィーン国立歌劇場ともまだ、恋愛関係にありませんでした。EMI、デッカ、DGあるいはロンドンといったヨーロッパ系のレコード会社がクラシック音楽の覇権争いを展開していく過程で、デッカがこのような壮大な計画をぶち上げました。

 この1958年という年はレコード会社の争いの中で技術的に非常に重要なことが起こった時期でもあります。「モノラル録音」であったレコード録音が「ステレオ録音」に取って代わる時期でもあったのです。デッカは「ステレオ録音」の普及に合わせてこの録音を成功させ、新たなクラシックファンも開拓していこうと考えたのです。
 すでにレコードセールスは「EMI=レッグとカラヤン」体制が決定的に成功していて、他の会社はなかなかそれに追随する状況にありませんでした。

 1954年のフルトヴェングラーの死とともにヨーロッパ楽壇はその様相をごろっと変えるのですが、ウィーンの国立歌劇場に顔を出し始めたカラヤンが、ある時ショルティと顔を合わせるときになるとカラヤンはショルティに告げます。
「『指環』を録音するそうだけど、営業的に成功するかどうかわからないよ。録音計画をあげているけど、無事4つとも録音できるかどうかわからないし、販売につながるかどうかも疑問だな」

 これに対しショルティは「まあ、見ててもらえばわかる」とだけ答えたそうです。

 ただ、デッカもショルティも勝算があったわけではありません。ウィーンフィルを使用し、豪華歌手陣を揃えることで莫大な経費がかかっていることもありますが、オペラ指揮者としてはコヴェントガーデンなどで十分に成果が上がっていても、ワーグナー指揮者という名声をまだ手にしていないショルティは未知数でした。ロンドンsoとの一連の録音はオーケストラ指揮者としても異彩を放っていましたし、カラヤンより4つ下で58年当時46歳(完成の65年は53歳)で上昇気流に乗りだしたハンガリー指揮者にかけてみようということになったようです。この後シカゴsoのシェフになります!!

 結果は、発売側の危惧がウソのようなものでした。1965年(8年を要します)に完成したこの仕事は音楽界の興味を一手に受け、大セールスにつながりました。長らく『指環』の録音を待っていた顧客だけでなく、新たなオーディオマニア、さらには海を渡った米国の音楽ファンにも指示され驚異的なセールスになりました。最終的には23~24枚に及ぶ大全集のレコードが飛ぶように売れる結果となりました。
 音楽雑誌、専門誌はのきなみ、この新たなレコードに多くの賞を与え、賛辞を送り続けました。

 後にベームのバイロイト録音が出るまで、このレコードしかないこともあって若きマエストロの大偉業は祝福を受け続けました。この大仕事はショルティの人生にとっても最大の成果であったことは、その後のショルティ自身の口からも何度も語られています。
 彼の生涯最高の仕事はと問われたら僕も間髪を入れず『指環』の録音と『マーラー全集』の録音(特に『第8番』は今でも全ての『8番』録音のもので最も素晴らしいものと断言できます)と答えることができます。

 この『指環』の発売後。ショルティはカラヤンと顔を合わせると以下の言葉をはいています。
マエストロ(嫌味ですね)の懸念に及ばず、私の『指環』は順調に販売を伸ばしています。」
これに対し、カラヤンは「それはおめでとう」と答えたとも残っていますし、何も答えなかったとも残っていて、実際のことはどうだったかということはわかりません。

 しかし、カラヤンは1967年ザルツブルグのイースターと復活祭を立ち上げ、この最初の作品として、『ニーベルングの指環』を上演し、同時に録音しています。さらに選択オーケストラはショルティに対抗するように手兵ベルリンフィルで録音だけでなくピットにまで入れています。

 ベルリンフィルをザルツブルグまで連れて行くことは、当時のベルリン市(西ベルリン)の関係者もよく思っていませんでした(東西に分割され観光の目玉であるベルリンフィルを3月の3~4週間もザルツブルグに持って行かれることは非常にマイナスだという判断)が、カラヤンから「結局ベルリンフィルのPRになる」ということで渋々受け入れてまで実施した経過があります。

 『指環』を録音したことについては誇らしげに語るカラヤンからショルティとのやり取りについて一度も語られることはありませんでした。反対にショルティは事ある毎にこのカラヤンとのやり取りを語っています。
ショルティも没後10年に「神々のたそがれ」収録を扱った英BBCの番組(65年)のDVD(ユニバーサル)が出ました。精力的にウィーンフィルをトレーニングするショルティの指揮姿が強烈に映っています。この仕事はショルティにとっても執念のなせる技だったわけです。

 但し、2008年現在、正式な『ニーベルングの指環』のスタジオ録音は、いまだにショルティ盤とカラヤン盤しか存在しません。 

 

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『ニーベルングの指環』4部作ウィーンフィル外(1958~65年録音)
 全曲完成からすでに43年を経過しています。大物ワーグナー歌手をズラリ揃えていて、今もなおこの全集の代表盤です。
ショルティが心血を注いだこのアルバムは、レコード史上初の快挙です。ショルティだったからこそ、不屈の精神で完成した代物だったかも知れません。
 ニルソンとヴィントガッセンコンビはだけでなく、「不世出のヴォータン」と謳われたハンス・ホッターと鉄壁な布陣です。
『ソニック・ステージ』と呼ばれた効果音のおもしろさなどがあります。先にも少し書きましたが、名プロデューサーであるジョン・カルショーのもと、『デッカ』の総力を結集した音響の素晴らしさがひかります。『ラインの黄金』が1958年の収録で、ほかは1962、64、65年の収録と続きます。
 以下はショルティのワーグナー録音です。中身についてはおって記事にします。


 

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『さまよえるオランダ人』シカゴso(1976年録音)

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『タンホイザー』ウィーンフィル(1970年録音)

 
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『ローエングリン』ウィーンフィル(1985年録音)

 
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『トリスタンとイゾルデ』ウィーンフィル(1960年録音)

 
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『ニュルンベルクのマイスタージンガー』ウィーンフィル(1965年録音)


 
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『ニュルンベルクのマイスタージンガー』シカゴso(1985年録音)


 
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『パルジファル』ウィーンフィル(1971、72年年録音)