ベルリンフィルの後継者が成立までの功績について多くの「功労表彰」があります。
 『ベルリン・フィル互助会』というところが出していて、1つめは「オーケストラの名誉会員」、2つめがオーケストラへの忠誠のシンボルである『黄金の名誉指輪』、そして3つめが1970年代から創設された『ハンス・フォン・ビューローメダル』です。

 

 「オーケストラの名誉会員」~文化担当大臣アヒム・ティブルティウス、コンサート・エージェントのエーリッヒ・ベリーなど
『黄金の名誉指輪』~ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、カール・ベームなど
『ハンス・フォン・ビューローメダル』~小澤征爾、ベルナルト・ハイティンク、ルドルフ・ゼルキン、クラウディオ・アラウ、ユーディン・メニューイン

 

 カラヤンとベルリン・フィルの確執は直接的には1983年9月の『ザビーネ・マイヤー入団騒動』が火種となっています。
1984年、カラヤンを『ニーベルングの指環』のヴォータンと例えると、ワルキューレのブリュンヒルデが現れます。それは彼の「秘蔵っ子」アンネ・ゾフィ・ムターです。彼女との出会いは1976年ルツェルン音楽祭の時で、当時彼女は13歳でした。78年以降はたびたび競演しています。カラヤンとベルリンフィルの関係が決定的に不和に至ったこの年、彼女はカラヤン側に立ちます。

 

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 ベルリンフィルがザルツブルグとルツェルン音楽祭をキャンセルしてしまい、キャンセルによって生じた超過出費を軽減するため、彼女はルツェルンでは出演料なしでカラヤンの難局を乗り切りました(代理のオーケストラはもちろんカラヤンの愛人ウィーンフィルです)。
 ベルリンフィルとの関係において、ムターは1987年の室内楽ホール落成式ではビバルディの『四季』の演奏をしていますが、その後2002年までフィルハーモニーに立つことはありませんでした。この2002年の演奏もオーケストラとの競演でなく、リン・ハレルのチェロ、ランバート・オースキンのピアノとのピアノ三重奏での登場でした。大ホールが室内楽演奏でいっぱいになることは非常にめずらしいことです。

 

 そしてオーケストラとの競演は2003年のベートーヴェンとのヴァイオリン協奏曲まで待ちました。この時の指揮は彼女の2回目の夫アンドレ・プレヴィンがつとめました・・

 

 さて、1988年になるとカラヤン自身が様々な炎症や手術、以前の脳卒中の後遺症により著しく体調を悪化させています。カラヤンは1973年にベルリン市から「名誉市民」の称号を受けています。ちなみにカラヤンはドイツ国民でなくオーストリア国民です。ベルリンフィルで指揮をしている時も、自宅はザルツブルグでした。

 

 そのカラヤンに対し、ベルリン州議会は「高齢で、職務を完全には遂行できない」と公然と批判されるようになった。『ベルリンフィルの歴史』で「終身指揮者」を得たのは今のところフルトヴェングラーとカラヤンしかしません。さらにフルトヴェングラーは通算31年ベルリンフィルの音楽をつとめていますが、彼が亡くなる2年前の1952年に初めてそのポストに就いています。

 

 就任早々「終身指揮者」のこの契約については破格のものでした。但しカラヤンの『終身指揮者』の契約は「終身」というのが完全ではなく、

 

『大体において終身指揮者』といった曖昧な契約をしています。

 

 このことでプライドを傷つけられたマエストロは1989年4月24日にベルリンフィルとザルツブルグでヴェルディの「レクイエム」を演奏後しばらくして書面によってベルリンフィルの『芸術監督』を辞任表明をしました。
81歳の誕生日を迎えて早々、34年の結婚に終止符が打たれることになりました。

 

 アバドがベルリンフィルのシェフに選ばれたのは1989年10月8日です。ベルリンの壁が崩壊したのがちょうど1か月後の11月9日でしたから、カラヤンが登場するとともに西ベルリンは栄え、彼が亡くなると同時にその体制はきれいさっぱりなくなりました。カラヤンの時代はすなわちドイツ分割の時代でもありました。

 

 カラヤン後の後継者の話はすでに書きましたが、指揮者リストは極秘で進められていました。その中で公表議論されていた面々がいます。

 

 ベルナルト・ハイティンク(1929~)、カルロス・クライバー(1930~)、ロリン・マゼール(1930~)、ズビン・メータ(1936~)、リッカルド・ムーティ(1941~)らでした。アバド(1933~)は当初は名前があがらず、あとで追加になった候補です。さらにバレンボイムが自分から候補に参戦してきました。

 

 それ以外にカラヤンが生前に名前を挙げていた人たちがいます。ジュリーニ、小澤征爾、(マリス)ヤンソンス、レヴァイン、ビシュコフ、ラトルそしてすでに癌にかかっていたテンシュテットといった指揮者です。これらの指揮者は年齢の問題、契約の拘束やレパートリーから理事会によって落とされました。
そして、先の指揮者についてもクライバーは常任指揮者に消極的、ムーティもアバドからスカラ座をを引き継いだところで、とてもベルリンフィルまで手が届かないということで、早々に競争から離脱。

 

 カラヤンは生前ベルリンフィルに首席客演指揮者を設けようとして、ここに、マゼール、小澤そしてムーティを配置しようとしていましたが、ベルリンにはこのシステムは生きないということで立ち切れになりました。

 

 最終的にベルリンフィルのシェフに最後まで残ったのはロリン・マゼールでした。音楽サラブレッドで頭も良く、さらに6か国語をしゃべれるバイリンガルでレパートリーも広いときているのでほぼ決定というところまでいきましたが、ベルリンフィルが望む『誠実さ』そしてベルリンフィルへの『忠誠心』というところに懐疑的な人間がいたことから、最後の最後にもっとも可能性が薄いと思われていたクラウディオ・アバドがその任に就くことになった。

 

 彼は、決して話がうまいわけでもありません。1981年9月ミラノスカラ座が来日したのですが、その時のエピソードです。
その年の演目は『オテロ』、『ラ・ボエーム』『シモンボッカネグラ』などが取り上げられましたが、マスコミはどこも「クライバー」「クライバー」でした。記者会見でもアバドはニコニコして座っているだけでなんの発言もしませんでした。

 

 あまりに日本のマスコミが「クライバー狂想曲」を唱えるので、スカラ座のスポークスマンがアバドを差し、「伝統ある『ラ・スカラ』の音楽監督、マエストロ・アバドです。非常にダイナミックな指揮をします」とだけ答え、はにかむアバドの姿があっただけでした。アバドの演目の『シモンボッカネグラ』はこの演目の最高の名演でした。もう1つの演目『セビリアの理髪師』は彼の十八番ですから言うに及ばずです。彼の内部にある「パッション(情熱の炎)」はひとたび棒が振られてから起きます。
ただし、このときは、クライバーと比較してあまりに演目が地味だったかもしれません。

 

 アバドについてよく言われることは、練習時にもオーケストラにガミガミと指示しないということです。何度も同じフレーズをゆっくり刻ませながら各パートにむかい、「最良の音を出して下さい」としか言わないそうです。
彼はオーケストラの自発性を最大限生かすことを心がけ、パート符を広げては演奏者と会話をしながら音楽を作っていくということでした。

 

 カラヤンが練習の時に1度も楽譜に書き込みをしたことがないというのと対照的でした。

 

 一方ベルリンフィルのシェフのポストから引きずり下ろされたマゼールはというと、かつても書きましたが、9年間一度もベルリンフィルの指揮台に立つことはありませんでした。その腹いせかどうかわかりませんが、その後、ドイツでベルリン・フィルに次ぐオーケストラと言われているバイエルン放送交響楽団の常任指揮者につきます。

 

 カラヤンが戦前、ベルリンフィルから閉め出され、戦前、ベルリン州立歌劇場の常任指揮者になったり、戦後同じくウィーンフィルから閉め出されウィーン交響楽団でブイブイ言わせたのと全く同じ行動をとっています。なお、アバドがマゼールを閉め出したわけではありません・・・

 

 『敗軍の将、語らず・・・』といったところです。