カラヤンは20世紀の2つの世界大戦後における『レコードの申し子』のような存在です。
歴史は、カラヤンをその伝道者に選んでいて、彼の存在はクラシックのみならず、レコード業界全体に影響を与えました。彼の存在は、戦後の音楽に関わるテクノロジーを大幅に前進させることになっています。カラヤンとビートルズが20世紀レコード界の最大の功労者と呼んでいいと思います。
歴史は、カラヤンをその伝道者に選んでいて、彼の存在はクラシックのみならず、レコード業界全体に影響を与えました。彼の存在は、戦後の音楽に関わるテクノロジーを大幅に前進させることになっています。カラヤンとビートルズが20世紀レコード界の最大の功労者と呼んでいいと思います。
モノラルからステレオへの進歩、映像の導入、さらにデジタル録音の普及、そしてCDの企画が当初74分になり、今の直径12cmの大きさになったのもSONYとカラヤンの『第九』があったからです(ちなみに、制作当時はベームの『第九』は1枚のCDに収まり切れませんでした)。CD決定の『第九』説はフルトヴェングラー音楽説とカラヤン音楽説の両説がありますが、カラヤンが正しいです。これは大賀氏がしっかりインタビューで答えています。
当初CDの企画をPHILIPSやSONYが決定するとき、『60分』として11.5cmにしていましたが、カラヤンの「『第九』が1枚で録音できる時間がいい」(これは本当はウソで「長く録音できた方が良い」というカラヤンの意見を参考にしてとのことでした)ということで、74分になりました。結局この基準はCDだけでなくMDの基準録音時間になりました(現在では80分のものもありますが)。
当初CDの企画をPHILIPSやSONYが決定するとき、『60分』として11.5cmにしていましたが、カラヤンの「『第九』が1枚で録音できる時間がいい」(これは本当はウソで「長く録音できた方が良い」というカラヤンの意見を参考にしてとのことでした)ということで、74分になりました。結局この基準はCDだけでなくMDの基準録音時間になりました(現在では80分のものもありますが)。
カラヤンのレコードとの強い関わりは、戦後すぐに始まったEMIのウォルター・レッグとであったことは、今までの記事でも書いたとおりです。このレコードセールスについてはEMIがいきなり始めたわけではありません。
もともとはRCAをはじめとする米国レコード業界が先駆的役割を果たしていました。
もともとはRCAをはじめとする米国レコード業界が先駆的役割を果たしていました。
トスカニーニやワルター、ストコフスキー、オーマンディ、クーセヴィウツキーといった指揮者ものからハイフェッツ、ホロヴィッツといった名演奏家まで膨大なレコードが流通していたのですが、ヨーロッパのクラシック界は大戦もあり圧倒的に米国の物量にかなわない状況でした。
クラシックの本場でありながらソフトがまるでないということから、まず戦勝国英国に本社を置くEMI、デッカ(この会社は多国籍軍)などが積極的に録音を開始しました。50年代になると敗戦国側の会社DG(ドイツグラモフォン)が積極参入し、ドイツを中心にしたアーティストの取り込みにかかりました。
レッグと隙間風が吹き出したカラヤンはDGと専属契約を締結し、商品のラインナップを揃えていきました。
レッグと隙間風が吹き出したカラヤンはDGと専属契約を締結し、商品のラインナップを揃えていきました。
今回の内容は先の『~その19~』、さらに次回に及ぶ『~その22~』の3回で完了させたいと思っています。
カラヤンとクラシック音楽界は彼一人の問題だけでなく、彼が動くことで周辺の人間(指揮者や歌手、さらにはオーケストラ関係者から演出家まで)ありとあらゆる人が玉突きのように影響していきます。
カラヤンとクラシック音楽界は彼一人の問題だけでなく、彼が動くことで周辺の人間(指揮者や歌手、さらにはオーケストラ関係者から演出家まで)ありとあらゆる人が玉突きのように影響していきます。
カラヤンは60年代前半にはミラノスカラ座、ウィーン国立歌劇場そしてベルリンフィルのポストを手にしています。そのため、各レコード会社がカラヤンとの契約(オーケストラも含め)奔走します。
EMI、デッカ(ロンドン)、DGが火花を散らして契約を進めようとしました。その結果『~その16~』でも書いたようなできごとが起こります。
EMI、デッカ(ロンドン)、DGが火花を散らして契約を進めようとしました。その結果『~その16~』でも書いたようなできごとが起こります。
ソリストを使用するときに契約が限定されて思いも寄らないオーケストラを使用しなくてはならないことになるのです。そこでカラヤンはベルリンフィルとともにDGと専属契約を結びます。
彼は、ここで「カラヤンコレクション」の一歩目を踏み出します。
59年に『英雄の生涯』(この早い時期にこの曲を録音しているのは非常に意識的です)から続々録音を開始。しかし、56年にベルリンフィルの終身指揮者につきながら、『ベートーヴェン全集』に着手するまでには6年を費やします。58年にはクリュ イタンスがEMIで先にベートーヴェン全集に入ります。
彼は、ここで「カラヤンコレクション」の一歩目を踏み出します。
59年に『英雄の生涯』(この早い時期にこの曲を録音しているのは非常に意識的です)から続々録音を開始。しかし、56年にベルリンフィルの終身指揮者につきながら、『ベートーヴェン全集』に着手するまでには6年を費やします。58年にはクリュ イタンスがEMIで先にベートーヴェン全集に入ります。
「クリュイタンス」とても上品なベートーヴェン演奏
http://blogs.yahoo.co.jp/takashidoing0826/44486169.html
http://blogs.yahoo.co.jp/takashidoing0826/44486169.html
カラヤンは練りに練り、ベートーヴェンとチャイコフスキー後期の交響曲を完成します。
なお、カラヤンによる最後の録音もDGでした。管弦楽曲はブルックナーの交響曲第7番、オペラは『ザルツブルグ音楽祭』で死ぬ直前まで振る練習をしていたヴェルディの『仮面舞踏会』です。
なお、カラヤンによる最後の録音もDGでした。管弦楽曲はブルックナーの交響曲第7番、オペラは『ザルツブルグ音楽祭』で死ぬ直前まで振る練習をしていたヴェルディの『仮面舞踏会』です。
カラヤンが契約をするまで、DGの中心アーテイストはカールベームでした。但しこの時期、録音についてはウィーンフィルよりもベルリンフィルが主でした。モーツァルトの交響曲もベルリンと素晴らしい録音を残しています。そして何よりもこの組み合わせで最高の演奏はブラームスの交響曲第1番です。70年代にウィーンフィルとも録音していて、若いファンはこの間延びをした演奏(ベームが間延びなら、バルビローリは音が止まっているし、チェリビダッケもただの「こけおどし音楽」になりますけど)という評価が定着しているようですが、58年のベルリンとの録音を聴いてから正当評価していただきたいと思います。
「音の渋さ(くすみ)」は相変わらずですが、非常に巧みな演奏しています。ブラームスの交響曲第1番としては屈指の名演奏です。多くのブラームスを苦手にしているリスナーに僕はいつもこの録音を奨めています。まともなリスナーは必ず次のことを言います。
そうすると、モーツァルトを奨めます。彼のモーツァルトはやはり若いときの方がいいです。これがウィーンフィルならもっと味わいのある演奏だったでしょうね・・・ベルリンフィルはやはり硬質なモーツァルトを形成しています。
さて、60年代にはベーム以外にはクーベリックがいますが、その他はドイツを中心とした指揮者中心でした。なお、若き日のマゼール、アバドはDG録音をしています。
ロンドン(英デッカ)にショルティ、メータ、ケルテス、アンセルメ、EMIはマルティノンやプラッソンというフランス指揮者とヨーロッパのレコード会社はスーパースターを獲得できないでいました。
ロンドン(英デッカ)にショルティ、メータ、ケルテス、アンセルメ、EMIはマルティノンやプラッソンというフランス指揮者とヨーロッパのレコード会社はスーパースターを獲得できないでいました。
大物指揮者は50~60年代当時ほとんどアメリカのオーケストラと関与し、アメリカのレコード会社と契約していました。RCAはライナー、ミュンシュ、CBSはワルター、セル、オーマンディさらにスーパースターバーンスタインと契約をしていました。
これらの流れは、ヨーロッパレコード業界にとって驚異と映ったようです。第2次大戦前にヨーロッパから米国に渡った名指揮者たちが、米国で活躍する分は気にしていなかったのですが、その彼らが、ヨーロッパの復興とともに『ザルツブルグ音楽祭』だけでなく多くの音楽祭で登場し、好評を博していきます。特にライナー、セル、ショルティといったオーケストラから非常に緻密な音を引き出す指揮者については、メンゲルベルクやフルトヴェングラー、クラウスのような自己流の流れで慣らされていた観客には非常に新鮮にに感じたようです。
バーンスタイン、マゼールのような米国人の指揮者第2世代の台頭もありました。飛行機で移動できるようになったこともあり、ヨーロッパ楽壇が米国のメジャーオーケストラあるいは音楽会社に飲み込まれてしまうのではないかという危惧を感じるようになりました。
そのショックな言葉をはいた指揮者がいました。シカゴ交響楽団の音楽監督をしていたフリッツ・ライナーです。彼もたびたびザルツブルグ音楽祭に登場し、ウィーンフィルを指揮したとき、以下の言葉をはいています。
「ウィーンフィルの諸君もなかなかうまく演奏するじゃないか」
ヨーロッパ楽壇関係者は、当初から音を出す機能はともかく、音楽を創造する点ではヨーロッパのオーケストラがずっと優れていると思い込んで(思おうと)いましたが、大規模な資金をバックに楽器と楽員の向上、さらに戦前に亡命したトスカニーニを含む上記の名指揮者たちにトレーニングされた米国オーケストラを驚異に感じ始めました。
「ウィーンフィルの諸君もなかなかうまく演奏するじゃないか」
ヨーロッパ楽壇関係者は、当初から音を出す機能はともかく、音楽を創造する点ではヨーロッパのオーケストラがずっと優れていると思い込んで(思おうと)いましたが、大規模な資金をバックに楽器と楽員の向上、さらに戦前に亡命したトスカニーニを含む上記の名指揮者たちにトレーニングされた米国オーケストラを驚異に感じ始めました。
現にライナーはブラームスの『ハンガリー舞曲』をRCA(米国の会社)によりウィーンフィルと録音しました。まだ、小品ですが、これが一挙にシンフォニーやオペラまでいくと、ヨーロッパ楽壇が米国メジャーに支配されてしまうという懸念に陥りました。ヨーロッパのレコード会社は内なる戦いだけでなく、外からの挑戦にも晒されはじめました。そこで名門オーケストラと専属契約を締結するとともに、米国から来てヨーロッパのオーケストラを指揮することについては、ヨーロッパのレコード会社との契約を行わせることとしました。
CBSで録音していたセルやバーンスタインはヨーロッパのオーケストラで録音したものはロンドン=デッカだったりするのはそのためです。
その中で、DGはカラヤンを餌に新たな指揮者を獲得することを目論みました。
そのため、ザルツブルグ音楽祭に登場する有望な若手にどんどんすり寄っていきました。
先のマゼール、アバドの始まり、小澤征爾、レヴァイン、バレンボイムなど、有望な若手指揮者をごっそり手中に収めました。カラヤンがベルリンフィル定期に彼らを積極的に招聘していく中でその勢力を拡大していきました。
そのため、ザルツブルグ音楽祭に登場する有望な若手にどんどんすり寄っていきました。
先のマゼール、アバドの始まり、小澤征爾、レヴァイン、バレンボイムなど、有望な若手指揮者をごっそり手中に収めました。カラヤンがベルリンフィル定期に彼らを積極的に招聘していく中でその勢力を拡大していきました。
70年代の前半にはDGとの契約こそが一流の音楽家の登竜門という時期もありました。
少なくともベルリンフィルで重要なポジションにつくには70年代前半まではDG契約をしていました。なお、70年代後半になるとDGに加えEMIのアーティストも含まれることになりました。
少なくともベルリンフィルで重要なポジションにつくには70年代前半まではDG契約をしていました。なお、70年代後半になるとDGに加えEMIのアーティストも含まれることになりました。
そして、この2つのレコード会社に契約している指揮者が「カラヤン門下」となりベルリンフィルのシェフとなるべく熾烈なレースを展開することになります。