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 カラヤンは何事につけ、非常に日本びいきだったのは確かです。この写真は1954年単身で初来日し、NHK交響楽団を指揮したものです。場所はあの日比谷公会堂です。端正な顔立ちです。やはりギリシア系の美しい顔立ちです。ドイツ。オーストリア系の顔立ちではありません。

 

 1954年は非常に微妙な年ですよね。フルトヴェングラーが没して、ベルリンフィルのポスト問題が生じる時期ですからね。この年は日本の変革期だったかもしれません。
この年4月7日に初めて登場します。曲目は以下のとおりです。

 

R・シュトラウス/交響詩『ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第4番
ブラームス/交響曲第1番

 

以上の3曲ですが、東京以外には京都、大阪、名古屋で公演していて5月9日まで14日間曲目にして13曲もやっています。その中には『運命』『第九』まで含まれるという豪華さでした。
ちなみに上記以外の曲をあげておきましょうか。

 

ベートーヴェン/『エグモンド』序曲
ベートーヴェン/交響曲第5番
モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲第5番
ケルビーニ/『アナクレオン』序曲
ヘンデル/組曲『水上の音楽』
プロコフィエフ/交響曲第1番『古典』
チャイコフスキー/交響曲第6番
ベートーヴェン/『レオノーレ』序曲第3番~2回
ベートーヴェン/交響曲第9番~5回
松平頼則/ピアノの管弦楽のための主題と変奏~3回

 

 1か月間の演奏でこれだけの曲目をカラヤン相手にN響がやったということも驚きです。ケルビーニ、ヘンデルなど珍しいものもありますが、松平の曲まで演奏していました。日本の作曲家の曲は、「君が代」を除けば生涯この曲しか演奏していないかもしれません。

 

 ところで、カラヤンの来日前にあるレコード販売がなされています。
 カラヤンのベートーヴェン録音はフィルハーモニアo(すでに「たかし」が推薦CDとしてこのシリーズの『~その~』であげています)との間で51~55年に進めていましたが、レコード会社はこの来日に合わせ、カラヤンの『運命』の販売をはじめました。レコードとコンサートのセットは、この時代にすでに用意されていました。

 

 フィルハーモニアoといえば、ウォルターレッグのEMIです。この時すでにカラヤンのレコードセールスが日本でもなされていました。
 「おそるべしレッグ!!」極東の日本にもレコード販売戦略をこの時すでにおこなっていたということです。
それまでの『運命交響曲』(今頃はあまり『運命』といった言葉を積極的には使用しませんが、当時はこの通称がクラシック音楽の中心として語られていたわけですしね)はフルトヴェングラーやメンゲルベルクなどが主で、このようなスマートでダイナミックな音を聴いて当時の音楽ファンはどう思ったのか知りたいです。

 

 今のファンはメディアの発達もあれば、頻繁に一流の音楽家が来日します。耳は発達していても、1回のレコード試聴あるいはコンサートでの集中力は当時とはまるで異なっていると思います。
1,000円、いや100円ショップなら105円でカラヤン演奏のCDが購入できます。しかし、当時のレコードは今の値段で換算すると10,000円以上したに違いありません。
 さらにオーディオ自体についても、今より貧相な音がとてつもない価格だったと考えると、音楽を聴くということに対する姿勢はまるで異なったでしょう。

 

 その中でのカラヤンの登場はいかなるものだったかは想像でしか考えられないかもしれませんが、『幸福度』あるいは『満足度』は今とは比べようもないものだったでしょう。

 

 さて、そのカラヤンですが、この来日で2回ばかり『帝王』の存在感を見せています。
 1つは日比谷公会堂での事前リハーサルの時です。
 カラヤンはリハーサルではN響相手に43分でブラームスの交響曲第1番の演奏をしました。この音楽をNHKはラジオで全国放送することとしていました。その際NHKのプロデューサーは、「演奏を『45分以内』で演奏して下さい」と要求したそうです。

 

 70年代のカラヤンに言えば、多分そのプロデューサーは首が飛んだ(プロデューサーだけでなく、上司またその上司も・・・)でしょうけどカラヤンはそのとき一言言ったそうです。

 

「あなたは、カラヤンを指揮する気なのか・・・・」
 理由は単に夜8時だか、9時だかのニュース前に演奏を終わらせ、定時でニュース放送をしたいためなのだそうです。たいした「愛社精神」に脱帽してしまいます。今の若者に聴かせてやりたい一言です。

 

 結局実演では、45分ちょっとかかり、放送予定時間内に収まりきらなかったようです。野球中継なら「大変に残念ですが~」というようになりますが、NHKは最後まで演奏させ、その後でニュースに入ったそうです。
 なかなか、楽しい駆け引きがあったということですね。

 

 さらに1957年にベルリンフィルと来日すると、名古屋での公演についてもちょっとしたやりとり(控えめに言いましたが本当は『かなりスリリングなやりとり)』があります。
 4月30日、5月1日と名古屋では交響曲第9番が「名古屋市公会堂」であったのですが、その事件はリハーサル時にありました。

 

 リハーサルをすると、駅のすぐそばにあるこの会場は列車が通るごとに汽笛(木曽にに向かう蒸気機関車です!)を鳴らしたため、演奏の途中で雑音が入ることになりました。これにカラヤンは劣化のごとく怒り、一言いいました。

 

「私の演奏中、列車を止めなさい!」

 

 これが世にいう、「カラヤン初来日『列車止めろ事件』」です。結局、国鉄は列車を止めませんでした。
ただ、演奏中、汽笛が鳴ることはなかったそうです。主催者の依頼に国鉄側が演奏中の駅周辺での列車の汽笛を自粛したという話が伝わっています。
 もうこれだけで、カラヤンは十分に日本で『カラヤン伝説』を残しました。『都市伝説』の域に十分に達しています。

 

 カラヤンは1988年までに合計11度の来日を果たし、118回の公演を行っています。さらに1990年にもウィーンフィルを引き連れて来日する計画になっていて、実現すれば初の「カラヤン=ウィーンフィルコンビ演奏」になったところだったのですが、この公演は実現しませんでした。

 

 「巨人・大鵬・卵焼き」という日本国民の一般の趣味・志向から行くと、カラヤンは大方の人間からは大いに受け入れられたようですが、熱狂的なフルヴェンファンを中心に『アンチ・カラヤン』も結構いたことも確かです。

 

 特に大学でもデカルトやショウペンハウエルに傾倒するような人間にその傾向があったと面白おかしく書かれた本を読んだことがあります。
 今でも、このフルトヴェングラーの熱狂的ファンには2つのタイプがあり、一つは全く楽器をやったことはないけど、哲学だのなんだの「オレ流」を貫く精神的エリート意識を持った(いわゆる自分を『公衆』と考える、自称思考・思想先導者集団)ような口達者の「頭でっかち人間」(ブログでもやたら同調性のない記事を書いている連中)と、もう一つは、なんと超一流の演奏家や評論家たちです。後者が結構いるので、フルトヴェングラーはフルトヴェングラーであり続けるのでしょう。

 

 ちなみにマゼールやバレンボイムは当然のことですが、朝比奈隆もフルヴェンの崇拝者で彼が生涯ブルックナーにこだわったのはフルトベングラーから直接「ブルックナーは原典版に限る。君も演奏するなら原典版で」と直接言われたからだそうです。さらにアバド、そしてカラヤンまでもフルトヴェングラーの崇拝者だったとも言われています。驚きでしょ。このことについては『~その24~』で書きます。

 

 『アンチ・ファン』が多いということは本物である証拠だと言っても間違いないと思います。

 

 ベルリンフィルで約半世紀ビオラ奏者をやっていた土屋さんが言っていました。
 「カラヤンのオペラは是非聴いてほしい」
 しかしながら、カラヤンは日本の観客の前でオペラを演奏することは1度もありませんでした。

 

もし、カラヤンのオペラが日本で演奏されていれば、日本のクラシック音楽シーンはまた変わっていたでしょう・・・