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 すでに1980年代も後半になると『ポストカラヤン』という問題が出てきました。
 大概、著名なオーケストラの代替わりはなかなか派手なものです。

 

 シカゴsoにフリッツライナーが就任する時、ハイエナのようにそのポストに就いたのは有名です。その前段があって、ライナーは1951年に名門ニューヨークフィル(ここはトスカニーニのオーケストラで、トスカニーニ信奉者のライナーとしては喉から手が欲しいポスト)のポストを欲しますが、ギリシャの名指揮者であるミトロプーロスが就任します。そのため、シカゴsoでクーベリック(50年に36歳で音楽監督に就任)との間でがすきま風が吹いているのを知ると、周到に自分を売り込み1953年に音楽監督となっています。

 逆に、考えてもいないのに舞い込んで来た人もいます。小澤征爾です。ボストンsoは実はコリンデイヴィスが断ったことで彼のもとにきました。デイヴィスはサーの称号が付いているように英国を離れたくなかったようで、客演なら応じるが音楽監督はダメだということだったんです。何せボストン音楽監督にタングルウッド音楽祭を除いても24~27週間の拘束を契約の条件にしたということです。7~8月の2か月を除く10か月(約43週)のうち半分以上はボストンに釘付けで仕事をした上、客演指揮者を呼びプログラミングをするということを要求したそうです。

 前任がスタインバークでオーケストラの実力も人気も落ちた中で引き継ぐのも嫌だったということでしょう。サンフランシスコsoの音楽監督についたばかり、さらにはオーマンディがフィラデルフィアoの次期音楽監督に小澤征爾を指名していて、オーマンディ勇退後に晴れてサンフランシスコsoからフィラデルフィアoに行く予定になっていたのをボストンがかっさらっていったということです。ひとつに、当時ロスアンジェルスpoがメータを担いで西海岸でブイブイ言わせていたことも若い人気指揮者を引き連れていこうとするきっかけになったようです。

 

 実際のところはポストを取りに血眼になっていることが多いです。
 ベルリンフィルについてはビューロー、ニキシュを受けた3代目の段階でフルトヴェングラーが派手な工作でこのポストを手に入れています。ドレスデンやベルリンの歌劇場にはさほど燃えない彼もベルリンフィルについては本気にポスト取りしています。

 

 1920年に貴志康一氏が日本からドイツに渡っています。そして、小澤征爾より40年も早く日本人として初めてこのオーケストラを指揮しています。彼は自作もベルリンフィルで録音しています(貴志作曲のチンチン「千鳥」を録音しています)。
朝比奈隆をして「彼が指揮を続けていたら自分は指揮をしていなかっただろう」と言わしめた優秀な音楽家で早くに亡くなりました。

 

 その貴志の手記で「ベルリンフィルは他のオーケストラの頭1つ抜けた存在」というのを読んだことがあります。1887年創設と40年程度しかたっていないオーケストラでありながら、すでに相当機能の高いオーケストラだったのですね。

 

 カラヤンも魅せられた一人です。7代目に就任(フルトヴェングラーが2代ありますから)するときも、かなり駆け引きをしています。ただ、カラヤンにしても多くの犠牲を払ってこのオーケストラを受けています。東西に分裂したベルリンの中にあるオーケストラは他のオーケストラと全く事情が異なります。観客も西ベルリン市民だけではないです。

 

 運営についても、ベルリンに壁が仕掛けられてしばらくは東側の演奏家はソビエトの意向も強く働いて全くベルリンフィルと競演出来ない状態でした(当時「第3次大戦」をカラヤンは憂慮していました)。西側の意義としては、逆に民主主義の「広告塔」としての意味合いも強くなり、相応のオーケストラ水準を保ち続けることを要求されたことも間違いありません。

 

 「フルトヴェングラー~カラヤン」という系譜だけで半世紀を経過したオーケストラはそれだけでも十分にブランド力になっていったということでしょう。

 

 カラヤン後に最も熱を上げたのはマゼールでした。彼はベルリンのポストを手に入れるために「奇策」を用いました。セルの後、クリーヴランドoのシェフをやっていましたが、さらに次のステップとしてウィーン国立歌劇場を手に入れます。彼は70年代後半から80年代前半にかけてベートーヴェンやマーラーの交響曲全集をウィーンフィルと録音してますが、彼らしからぬオーソドックスな演奏で録音しています。

 

 非常に「横綱相撲」をした演奏です。これがマゼールの演奏とは思えないものです。
もっと決定的なことは、80年代前半に、ベルリンフィルでカラヤンのキャンセルが出たコンサ-トをマゼールが代役で務めることをしました。それもウィーン国立歌劇場の演奏をキャンセルしてまでです。
マゼールはこの時期からずっとベルリンフィルに狙いを絞っていました。

 

 カラヤンの死後、ベルリンpoのシェフ争いは一部の人には大変だったみたいです。ここで最も動いたのは多くの本を読むとダニエル・バレンボイムと先にも記載したロリンマゼールだったそうです。二人には共通点が多いです。まず、フルトヴェングラーの信奉者であること、さらに楽器がうまくソリスト(あるいはソリスト級)だということ。バレンボイムはもともとピアニストでしたし、マゼールもヴァイオリンの名手です。ニューイヤーコンサートではボスコフスキーばりにウィーンフィルの前で自分の演奏を披露していました。そしてもう一つはワーグナー指揮者だということです。バレンボイムがバイロイト常連であることは衆知のことですが、マゼールも実はすごい記録を持っています。史上最年少30歳でバイロイトに登場しています。


 

 そしておまけですが、『~その16~』の星座のところえ書きましたが、バレンボイムが蠍座に対してマゼールは『魚座』と「水の星座」対決なのです。ともに最大級の野心家の戦いでバトルが繰り広げられました。

 

 しかし、政治力ではマゼールが一歩も二歩も抜きに出ていました。マゼールで決着かといったところで大きな横やりが入りました。
 レコード会社の問題です。マゼールはDGとも契約していたのでベルリンフィルとしては全く問題がなかったのですが、もう一つの契約に難癖が入りました。

 

 どこの会社かわかりますか?

 

CBSソニーです。

 

 これは、本当のところはとんだトバッチリだったんです。カラヤンが死ぬ直前に協議していたのはSONYの大賀社長であることは『番外編6』で記載したとおりです。
そこでカラヤンの録音契約は映像も含め、「ほとんどSONYに移る」のではないかという憶測(流言)が流れマゼールがカラヤンの意向を引き継ぐのではといううわさが立った結果、マゼールは後継者争いから脱落し、ベルリンフィルのシェフ争いは振り出しに戻りました。

 

 なかなか面白い話ですが、マゼールもかなり個性の強い人ですから、有力者の敵もたくさんいたということでしょう。ウィーン国立歌劇場並みに大変というわけではないかもしれませんが、ベルリンフィルも一度音楽監督(あるいはもう一つ上の芸術監督)に誰かが就けば、当然10年はそのポストにいることから、それに耐えうるかどうかは重要なことです。

 

 ベルリンフィルは新たなオーケストラの団員を団員自身たちが決める自主運営になっていますが、指揮者も同様です。
結局アバドが9代目となりました。マゼールはこの時のショックで1990年から9年間もベルリンフィルの指揮台に立つことはありませんでした。片やバレンボイムはアバドがベルリンから去ったときもベルリンのシェフにエントリーし、ラトルと一騎打ちを展開することになります。この蠍座指揮者も権力欲、ブランド欲は相当なものだったんでしょうね。

 

【ベルリン・フィルハーモニーの首席指揮者】

ハンス・フォン・ビューロー(1887~92年 常任指揮者)
アルトゥール・ニキシュ(1895~1922年 常任指揮者)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1922~1945年 常任指揮者)
レオ・ボルヒャルト(1945年 常任指揮者)
セルジュ・チェリビダッケ(1945~1952年 常任指揮者)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1952~1954年 終身指揮者)
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1955~1989年 終身指揮者・芸術監督)
クラウディオ・アバド(1990~2002年 首席指揮者・芸術監督)
サイモン・ラトル(2002年~ 首席指揮者・芸術監督)

 

 アバドは歴代で初めておよそ死ぬまでベルリンフィルにしがみつかなかった指揮者です。現役で今も指揮していますが、ポスト退任後もベルリンフィルに客演しています。彼はウィーン国立歌劇場もミラノスカラ座も常任指揮者になっていますが、いずれも一定時期でポストを明け渡しています。マゼールとは180°異なる行動をとっています。

 

 常にカラヤンと比較されたアバドは決して楽な立場ではなかったかもしれません。大病を患ったこともあり結局13年間のポストでした・・・