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 今回の「写真2枚」は僕が大好きな2枚です。
 小澤さんはもともとはミュンシュの弟子だということは彼のファンなら皆知っていることですが、しかしミュンシュの演奏はというと誰も聴いていません。さらにミュンシュのことになるとさらにどういう人かもを知りません。わざわざ、現代の面白いマンガがあるのに、今さら『鉄腕アトム』なんてことでしょうね。「古きをたずね、新しきを知る」、若干言葉の使い方は異なりますが、音楽はある時自然発生的にはでないものです。必ず系譜というものがあるはずです。

 

 『鉄腕アトム』は多くのSFの手本になっています。その手本がないと今のSFの名作の中では存在していないものがいくつもあります。ミュンシュがいなければ、小澤征爾のラヴェルもベルリオーズも存在しないし、あのしなやかなブラームス(人に寄るとドイツ精神のかけらもないブラームスとこけおろされますが)も存在しません。

 

 その後、小澤さんはタングルウッド以後、ニューヨークフィルの副指揮者になってからヨーロッパに渡っています。

 

 まず、小澤征爾(敬称を略します)のカラヤンに対する気持ちについては、小澤ファンなら皆さんご承知だと思いますが『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫)に記されています。

 

 小澤征爾は4人の師匠を持っています。学生時代の齋藤秀雄、ブザンソンコンクールで優勝してシャルル・ミュンシュ、レナード・バーンスタインそしてヘルベルト・フォン・カラヤンです。
齋藤からは今さらいうこともなく、合理的な指揮法を学んでいます。ドイツに長らく留学したことから体得したもので、ウィーンのスワロフスキー(メータ及びアバドの先生)とこの齋藤が世界的にも有名です。
 ミュンシュからはベルリオーズを始めとするフランス音楽を学んでいます。
 バーンスタインからは師匠としてよりも友人としてのアドバイザーだったようですが、オーケストラへのコミュニケーションとオーケストラの教育法を学んでいます。

 

 そしてカラヤンからは、多くのことを学んでいます。音楽のこと、音楽的コミュニケーションのこと、そして何よりも指揮者は勤勉と相応の知性を持つこと・・・

 

 小澤は手記に書いていました。ベルリンフィルを初めて振った時の模様を。
 指揮棒を振ってもきちんと思いの音を出してくれない。しかし、彼は齋藤流の棒振りに言語はいらないと、「どうして自分の棒に合わせることができないんだ」と怒鳴ったそうです。

 

 ベルリンフィルは驚いて小澤どおりの棒に身を託しきちんと音を合わしたそうです。
 小澤がベルリンフィルを初めて振ったのは1961年2月20日、場所はベルリン音楽大学ホールで、音楽は以下のものです。日独修好100年祭記念コンサートのものです。

 

石井真木/小オーケストラのための7章
入野義朗/小オーケストラのためのシンフォニエッタ
モーツァルト/交響曲第28番

 

 1935年9月生まれですから、当時は若干25歳の快挙です。
 そして正式にカラヤンに認められ定期公演で振ったのはそれから5年後の1966年9月21~23日の3日間です。ベルリンの本格デビュー(場所はフィルハーモニーザール)としては随分地味ですよね。

 

ベートーヴェン/交響曲第1番
シューマン/ピアノ協奏曲(p)ホルヘ・ボレット
ヒンデミット/交響曲『画家マチス』

 

 この時カラヤンは小澤に言っています。
 「あなたは、指揮をしすぎます。あなたがそんなに指揮をしなくても私のオーケストラはきちんと音を出します」

 

 確かに昔の小澤征爾の指揮を見るとカチッとしているが、非常にせせこましく、うるさい指揮をしています。1967年の日本フィルの『幻想交響曲』の第5楽章が完全な映像を持っているのですが、鐘の部分にほとんど全部キューを出しています。
 カラヤンは小澤に指揮棒を振りすぎず、オーケストラの音をもっと聴きなさいという意味をこめたんだと、その後のインタビューで答えています。

 

 ミュンシュとカラヤンは小澤征爾に共通したことを指摘しています。
 「体の力を抜いて指揮しなさい。体に力を入れて指揮すると音が耳に入らなくなります。体を柔軟にすることで音楽が自然と入ってきます」
 小澤征爾が若い指揮者に教えるシーンを映像で見ることが多くなりましたが、彼も同じことを言っています。アメリカの1984年に製作されたドキュメンタリー『OZAWA』でタングルウッドで十束尚宏氏を教えるシーンがありますが、ウェーバーの曲に非常に固く指揮している姿がありました。

 

 彼は、しきりに「体を柔らかく」と強調していました。体を固く指揮することによってほんの少し指揮のタイミングが遅れ、演奏者のタイミングが取りにくいということを言っています。
 今、小澤征爾の指揮は世界で最も柔軟かつ美しい指揮をします。

 

 どなたでしたか、若い時分ベルリンフィルの奏者が「小澤の指揮はジャワの現地住人が踊るようだ」と表現力のことを言っていますし、ヴァイオリニストのアイザック・スターンが「彼は彼(の体)そのものが音楽だ」と言っています。彼の指揮に曖昧さはありません。
 彼がバイエルン放送交響楽団を振ったストラヴィンスキー『春の祭典』のDVDが出ており、この曲の指揮の模範バイブルとして有名です。

 

 僕もこの映像を何度も見ますが、この映像のおかげで、難解な『春の祭典』のテンポがきちんと刻めるようになりました。

 

 カラヤンは小澤征爾に「マン・ツー・マン」でいろいろと教え続けました。
 まずは、モーツァルト。小澤征爾はザルツブルグ音楽祭で『コジファントゥッテ』の演奏をやって大失敗をしてしまいました。1970年5月31日のブラームス交響曲第2番を最後にザルツブルグでウィーンフィルを演奏することも定期に呼ばれることもありませんでした。

 

 その後、ウィーンフィルを演奏するのは1982年8月11日のザルツブルグ音楽祭まで待ちます。
 曲はハイドンのチェロ協奏曲(ヨーヨーマ)とチャイコフスキーの交響曲第4番の2曲で名誉回復します。
その間ザルツブルグ音楽祭で小澤征爾が振ったオーケストラはドレスデン国立歌劇場o、ロンドンso、サンフランシスコso、ウィーンso、ボストンsoといったもので、彼にとっては「冷や飯時代」だったかもしれません。

 彼のライバルであるアバド、ムーティ、マゼール、レヴァイン、メータなどがウィーンpoをこの音楽祭で振る中、小澤征爾だけは「外様オーケストラ」を振る日々だったわけです。

 

 カラヤンはずっと小澤征爾をバックアップしていました。ベルリンフィルの定期公演には必ず彼を呼びました。普通では年間2回も呼ばれれば大変なことでしたが、3回、多いときにはなんと4回とカラヤンに次ぐ演奏回数でした。
 そして小澤のレパートリーでないものはレコーディングで必ず呼ぶことにしていました。

 

 有名なものではモーツァルトの一連のオペラ、『ファルスタッフ』『パルジファル』、ブルックナーの交響曲などです。特に『ファルスタッフ』については80年代オペラ復活のため、日本でもヨーロッパでもかなり振りましたし、ブルックナーも70年代までは全く白紙のレパートリーでしたが、90年代にはかなり振り、ウィーン・フィルやベルリン・フィルでも頻繁に振っています。

 

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 小澤のブルックナーは他のドイツものであるベートーヴェンやブラームスと比較してかなり分厚いものになっているのはそのためです。
 1988年6月21~22日のベルリンフィルとのブルックナー第7番は賛否が分かれる演奏として今も語り草になっています。ただ、小澤征爾は明らかにカラヤンの遺伝子を引き継いでいることは確かです。

 

 カラヤンは小澤征爾に自分のことを「ヘルベルトと呼べ」と言っているそうですが、いつも「カラヤン先生」と呼んでいます。「ヘルベルト」とは呼べないといつも言っています。
 僕は小澤征爾のこのような姿勢が大好きです。

 

 小澤征爾はベルリンでのカラヤンによる最後の代役もやっています
 1989年4月20~21日、カラヤンはベルリンフィルの穴をあけます。4月に終身指揮者を降りるといったため、このコンサートがキャンセルになるのを小澤征爾が引き受けました。
 プログラムはプロコフィエフの交響曲第7番とチャイコフスキーの交響曲第5番。
 このとき、ベルリンフィルは死を尽くして演奏をしたと言われています。

 

 カラヤンが没する3か月前のことです・・・